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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母と四郎の接点は? 

2013年07月03日 外部ブログ記事
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西郷頼母は、明治13年(1880年)、旧主「容保」が日光東照宮の
宮司になると、禰宜として仕えた。そして明治20年(1887年)、
職を辞し、「大同団結運動」に加わる。会津と東京を拠点として
政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が
瓦解したため 政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った。

明治22年(1889年)福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、
明治32年(1899年)辞職後、再び若松に戻った。
明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。

「大同団結運動」とは、明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」
(明治憲法)が発布され、明治23年(1890)の「帝国議会開設」に
備えた自由民権運動各派による統一運動。

1882(明治15)年、会津盆地の北、喜多方市で、自由民権運動に
端を発した暴動が起きる(福島事件)」。これをきっかけに、
全国各地で激しい暴動が起き、政府は「自由民権運動」を弾圧
するようになる。

西郷頼母もその運動に関わり、「大日本帝国憲法」の発布の年、
政治から身を引き、霊山に籠もったのである。


この間「西郷四郎」は・・・、

明治19年(1886年)「警視庁武術大会」で西郷四郎ら講道館柔道が
優勝したことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として

採用される。
皮肉にも 時の警視総監は「三島通庸」。福島事件で、自由民権運動を
弾圧した県令だった。

明治22年(1889年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、
講道館の師範代となったが、嘉納が洋行中の明治23年(1890年)、
『支那渡航意見書』を残し、忽然と講道館を出奔する。この時25歳。

それは、西郷頼母が「霊山」の神官になった年でもある。
そのご、四郎は「宮崎滔天」の「大陸運動」に身を投じた。

中国は 1840年のアヘン戦争、1894年の日清戦争で清朝の基盤が
ゆるぎ、1911年「孫文」らによる「辛亥革命」が起きる。
中国では、日本の明治維新を鏡とし、また自由民権運動に敗れた
志士たちは、大陸に夢を馳せ、中国の革命を後押ししようとした。

西郷四郎は長崎に行き、鈴木天眼が明治35年(1902)に創刊した
「東洋日の出新聞」の編集長を勤めた。

そして、「西郷頼母」は 明治36年(1903年)会津若松で亡くなり(74歳)、
「西郷四郎」は 大正11年(1922年)尾道で亡くなります。(57歳)。

さて、「頼母」は自由民権運動、「四郎」はその後の「大陸運動」に
関与したようですが、やはり二人の接点は無さそうです。

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