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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」と養子「西郷四郎」 

2013年07月03日 外部ブログ記事
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西郷頼母(さいごうたのも 1830〜1903年)
松平容保(まつだいらかたもり1836〜1893年)

ちなみに?母は1830年生まれで、八重の兄の山本覚馬は
1828年生まれ。ドラマでは西郷頼母はもう隠居した
「年寄」のようですが、実際には「山本覚馬」より
2歳年下でした。ジャ〜ン

さて、西郷頼母の母、妻子、二人の妹ともに自刃して
果てたのですが、長男「吉十郎」だけは城にあがり
「頼母」とともに、米沢、仙台、函館まで運命を
供にしまた。

その「吉十郎」は、明治12年22歳で若死にして
しまったため、頼母は甥の「志田四郎」を養子にします。
この養子が「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」です。

さて、養子に迎えたのはいつか?。

「四郎」は 会津藩士「志田貞二郎」の三男として生まれ、
会津戦争の時はまだ2歳。会津の西50kmほどの山あいの村
津川に疎開していました。

明治5年、父「貞二郎」が38歳の若さで亡くなります。
四郎が7歳の時でした。四郎はずっと津川で育ったようです。

明治15(1882)年、17歳で上京し、この年、嘉納治五郎に
よって創設されたばかりの「講道館」へ入門します。

その後、明治17(1884)に 西郷(保科)頼母の養子となり
当初「保科四郎」後に「西郷四郎」と改名。


さて、ネットでは「四郎は霊山の宮司を勤める頼母に育てられ、
頼母から武芸を習った。その後、東京に出て、講道館にはいった」と
いう記述が多いようですが、「頼母」が霊山の宮司を勤めるのは
明治20年です。全く辻褄があいません。


「四郎」が東京に出て講道館に入門した明治15年、また、
「頼母」の養子となった明治17年、その頃「頼母」は
ずっと日光東照宮の禰宜を務めていたのです。

そこで、不思議なのは、「頼母」と「四郎」の接点が全く
見つからないことです。「四郎」は「頼母」の甥だったと
いいますので、「頼母」の妻(旧姓「飯沼」)の姉妹
いずれかが「志田貞二郎」に嫁いでいたことになります。

「四郎」は7歳で父を亡くしていますので、東京に出るには
叔父「頼母」の資金援助を受けていたのでしょうか。
「頼母」は明治12年には一子「吉十郎」を亡くして
いますので、甥である「四郎」に目をかけていたので
しょうか。

しかし、その後も「頼母」と「四郎」が接触したという
記述が全く見当たりません。「四郎」はその後 講道館を
出て、長崎に行き、政治活動に身を投じ、最後は
1922年 尾道市で57年の生涯を閉じます。

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