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平成の虚無僧一路の日記

一休と住吉神宮との知られざる関係 

2013年06月13日 外部ブログ記事
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大阪の「住吉神宮」と「一休」(1394〜1481)とは
深い結びつきがあったことは、意外に知られていない。

『一休和尚行実及年譜』によれば、一休は文明元年
(1469年)75歳の時、京田辺の酬恩庵を出で、住吉に
移り住んだ。翌年、住吉神宮に参詣し、盲目の女性
「森女」に出会う。半年後にまた住吉で「森女」に
再会し、「森女」と同棲する。

文明6年(1474年)、80歳の時、後土御門天皇の
請願により、一休は大徳寺の住持となり、応仁の乱で
焼けた大徳寺の再建にとりかかる。

そして文明10年(1478)、86歳。「森女」を連れて
酬恩庵に戻り、三年後の文明13年(1481)。87歳
(かぞえ88歳)で往生する。

つまり、大徳寺の住持に任ぜられた時、一休は京都には
居なかったことになる。その後も、住吉から堺に出向いては、
堺の豪商「尾和宗臨」らに大徳寺再建の資金を工面して
もらったりしていたのだ。

そして、大徳寺の山門、本堂が完成した文明10年(1478)に
京都に戻っている。


その前に、一休はなぜ「住吉」に移り住んだのか。
この疑問が最近 ようやく解けた。

「住吉神宮」は、後醍醐天皇の皇子「後村上天皇」が、
正平6年(1351)から、正平23年(1368)年、41歳で
亡くなられるまで17年間「南朝の行在所」だった。

一休が生まれる前のことだが、一休の母は「後小松天皇」の
寵愛をうけて一休を身ごもったが、「南朝方の忠臣の娘」と
いうことで宮中を追われた。一休にしてみれば、北朝の
「後小松天皇」の子というより、「南朝」の母方に、より
恋慕の情があったと考えられる。

一休が「住吉神宮」に長く滞在していたことで、一休の
南朝びいきは明白となる。

そして、なんと「住吉神宮」は明治の廃仏毀釈まで「神仏
融合」で、神官の「津守」氏は「住吉寺」の住職も兼ねており、
なんとなんと「大徳寺」の住持にもなっていたのだ。

しかるべき肩書きも印可状も持たない「一休」は
大徳寺の住持になる資格が無かった。そもそも
そのようなものは毛嫌いして、生涯、一托鉢僧として
生きてきた「一休」だったが、80歳を過ぎた最晩年、
大徳寺の開祖「大燈国師」の遺鉢を継ぐものは我一人
との思いを強くする。しかし、その資質はあっても
資格(免許状)が無い。そこで、一休は「住吉神宮」の
神主兼大徳寺住持だった「津守」氏を頼り、その推挙を
得て、「大徳寺の住持」になったのである。

このことに気づくと、「森女」の存在が重要なものと
なってくる。小椋圭氏などは、住吉の境内に棲んでいた
盲目の乞食女のようにとらえているが、とんでもない。

住吉神宮は、古来「舞楽」を継承していた。「森女」は
住吉の神官「津守」氏の娘で、舞楽を務める巫女だった
と考えてよいのではないだろうか。

一休は、「森女」を娶ることで「津守」氏と深い関係を
築き、大徳寺の住持になれたのだ。

「狂雲集」には「大徳寺の住持」就任を前に「森女」
との出会いと赤裸々な愛の詩を書き連ねている。

「狂雲集」を「一休が長い放浪の末に「大徳寺の住持」に
なるまでの壮大な叙事詩と考えれば、「森女」の詩が
単なる一休の色事ではないことは明白である。

ところが、このことはほとんど知られていない。

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