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平成の虚無僧一路の日記

「福沢桃助邸」はその後 

2013年06月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山手線恵比寿駅の東に小高い山がありました。
「福沢山」と呼ばれていたそうですが、そうとは知らず
私は その下を通って三田まで通っていました。

そこが、福沢諭吉の長女「お房」さんと「福沢桃介」の
邸宅だったと知ったのは、慶応を卒業して千代田生命に
入社した時です。そこは「千代田生命」の研修センターに
なっていて、入社して一年は教習生として、ここで
暮らしました。

そして、入社4年目に不動産部に配属された時、
土地購入時の一件資料を見つけたのです。
業務上知りえた秘密は公開できませんか?千代田生命も
無くなってしまったから、まいいでしょう。

ここは、お房さんと桃介の邸宅でしたが、400坪ある
敷地には、劇場や書生たちの住まいもありました。

桃介邸は、二棟あり、その間は渡り廊下でつながれて
いました。桃介はほとんど名古屋〜岐阜、長野で仕事を
していましたから、めったに東京に帰ることは無かった
のですが、帰京してもお房さんは顔を会わせなかった
ようです。

さて、桃介は巨万の富を築いたのですが、昭和13年に
亡くなり、戦争戦後を経て、株も紙切れとなり、貨幣
切り替えで、何万円もの遺産も100分の1になって
しまいました。

桃介とお房さんの子の「駒吉」は、精神を病んでいて、
看護婦の「八重」さんが付き添っていましたが、
駒吉は、八重さんを妊娠させてしまいます。というわけで、
事実婚です。

そして戦後、駒吉夫婦?は、生活の困窮から、敷地を
千代田生命に売却します。 敷地400坪をたしか1万5千円
だったと記憶しています。(安い!)千代田生命の
創業者は慶応の塾頭を務めた門野幾之進でしたから、
福沢桃介の遺児を救おうという気持ちもあったようです。

その1万5千円も、戦後の超インフレで、あっというまに
価値がなくなり、他の遺族から「売買契約は無効」との
訴訟を起こされますが、千代田の勝訴に終わります。

さて、駒吉さんはその後 どうされましたかな。

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