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平成の虚無僧一路の日記

比較的平穏に帰還できた中国 

2010年08月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



満州開拓団の悲劇は、言語に絶する。だが、中支・
南支方面の部隊は、比較的平穏無事に帰れたようだ。

父の『従軍記』を読むと「中国人の報復を怖れたが、
「多くの中国人は、温厚で寛大で、同情してくれ、
友好的だった」という。

父は主計だったので、食料の調達、調理、衣服などの
運搬に、何人かの中国人を苦力(クーリー)として使って
いた。苦楽を共にしてきた仲でもあり、情も通いあい、
我々の撤退に、どこまでも着いてきた。また、戦争で
追われて他県に逃げた中国人も、故郷に帰るので、
部隊と一緒に着いてきた。

武装解除も整然と行われ、中国人による略奪などは
無かった。中国の県の長は、将校を自宅に迎えて
食事の接待などもしてくれた。その寛容さには感服。

捕虜収容所での生活は、軍隊同様、規律正しく、各種
作業も分担してスムースに行われていた。兵隊は、
収容所を出て、道路や家の復旧、農耕の手伝いをして
その報酬として、食料・煙草を分けてもらったりした。

時には、無聊を慰めるため、運動会や相撲大会、演芸
大会なども行われた。これがまた、芸達者な人がいる
もので、

女子軍属として南京に派遣されていた女性の記述にも
「三味線や太鼓など、どこから調達してきたのかと驚く
ばかり。浪花節、長唄、小唄、端唄、日本舞踊の名取も
いて、見事な芸に、拍手喝采、沸き立った」という。

そしていよいよ、上海では、中国の警備兵に腕時計、
毛布類まで略奪されたが、ただひたすら、日本に帰れる
ならばと、されるがままに耐えたという。

最後の最後、江順丸で支那海を渡り、佐世保に着いた
所で、海が荒れ、船が座礁する。「ここまで生き長ら
えてきたのに、ここで 天命尽きるか」と、覚悟したが、
アメリカの上陸用舟艇に救助される。「昨日まで“鬼畜
米英”と憎んできた米兵に助けられるとは」と、述懐
している。

第13師団、歩兵116連隊。帰還した者 3,500名。帰れな
かった者 1,700名である。3人に1人が命を落とした。
中国に残してきた戦友のことを思うと、「すまぬ、すまぬ」
の思いで、父も戦争を語ることは無かった。]]>

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