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平成の虚無僧一路の日記

南京虐殺はあったのか 

2010年08月15日 外部ブログ記事
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「中国侵略軍を慰問する」という一文にゆき当たった。
徳川義親は、尾張徳川家の第19代当主。

「南京虐殺」について、吉本の芸人たちで構成された「わら
わし隊」でも触れられているが、徳川義親の伝記にも、こう
書かれていた。


「"あれを撃て"
 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、
 日本軍が南京で大殺戮を行なった。今日では、南京虐殺は、
 まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが
 聞いたのは、数万人の中国民衆を殺傷したということである。
しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐で
 あるということを、藤田くんが語っていた。 長くんとは僕も
 親しい。


 藤田君は、僕が中国を去った後も、まだ上海に留まっていた。
 麻薬の後始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、
 南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。

 二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口が
 ほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもを
 混じえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。その中に多数の
 中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、
 後で戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に
 長中佐は、「あれを撃て」と命令した。中国兵がまぎれているとは
 いえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して
 撃たなかった。それで長中佐は激怒して「人を殺すのはこうするん
 じゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いた他の
 兵隊が、一斉に機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 長中佐が白慢気にこの話を藤田君にしたので、藤田君は驚いて、
「長、その話だけは誰にもするなよ」 と厳重に口どめしたという。


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