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平成の虚無僧一路の日記

「八重の桜」林権助の死 

2013年05月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



鳥羽伏見で、大砲奉行「林権助」が、敵の方向いて目を
見開いたまま最期を遂げる。(事実は、江戸へ退却する
船の中で息を引き取ったようですが)。享年63歳。

この時、息子の「又三郎」も戦死しているのです。
親子で戦死の悲劇。その「又三郎」には8歳になる子が
いました。祖父と父を同時に失い、8歳で家督を継ぎ、
「権助」を名乗ります。明治以降、困窮して、知人宅を
転々としていたところ、なんと薩摩藩出身の陸軍少佐
「児玉実文」に救われ、その庇護の下、東京帝大を出て、
外交官となり、日露戦争最中の「駐韓公使」を務め、
後に駐英大使と名を馳せたのでした。

この「林権助」の娘さんでしょうか。私の母方の遠縁になり、
祖母の葬儀に見えたそうです。毅然とした立派な婦人だったと、
昨日、母から聞きました。

会津と薩摩、犬猿の仲のようですが、山川大蔵の妹「捨松」は
薩摩の「大山巌」と結婚しており、長州の「前原一誠」なども
会津藩子弟のために尽力してくれているのです。
山本覚馬の父「権八」も弟「三郎」も戦死しますが、
山本覚馬を救ったのは薩摩藩士であり、後に同志社となる
覚馬の屋敷は薩摩藩邸を譲り受けたものでした。

今回の「八重の桜」は、明治以降のそうした怨執を越えた
友好に目を向けていくのでしょうか。だとすればすばらしい!

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