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朱鷺の“人生七転び八起き”

「私は、ない」とは、どういうことか 

2013年05月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


某氏が「この人が、どうして素晴らしいか」を
熱を入れて、私に語りかけた。


「この人は、あーで、こーで、そうで・・」
その後「どう思う?」と聞いた。


某氏の話を聞いている間中。
「私は、なかった」ので、答えに窮した。


そして
「あー、そうか。私はないんだ」と実感した。
のでした。


自分は、ない。
それは事実としてある。


じつは、聞いているとき
私にとっては。


某氏が、その人に、どのように関心があり
どのように感じ、感動した事実として
ある、だけなので
「私が、その人をどう感じるか」
という観点で聞いていない。
のですね。


私としての主観が、そこには「ない」のです。


そういう人がいた。という事実。
それをどのように受け取ったか、
という某氏の事実。


あるのは、ただの事実のみ。

評価も判断もないというのは
もしかしたら、そういうことなのかも。

しかし、貴方は、そこにいるじゃないか。
といいたくなる人も、いるでしょう。

ですから、心理的には、そういうことなのね。
肉体として、自分は、ここにいます。
それも、事実です。

「自分」としての主観が抜け落ちると
ただ事実だけがあり、そのことに対する
主観から来るはずの評価も判断も
無意味になってしまう。

無意味なので、取り上げない。
浮かび上がらない。
・・・そんな感じ。、

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