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平成の虚無僧一路の日記

学徒生は核実験の生贄にされた 

2010年08月06日 外部ブログ記事
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参集して行われた。上広栄治会長の著書『倫理がひらく
君たちの未来』を拝読する。

「(社)実践倫理宏正会」は、広島で原爆に遭いながらも生き
長らえた上広哲彦氏が、原爆症と戦いながら、現実をありの
ままに受け入れ、明るく前向きに生きる道として「朝起き
実践による倫理の会」を立ち上げたもの。

『倫理がひらく君たちの未来』は、二代目会長 上広栄治氏が、
子供の頃の思い出を記したもの。栄治の父哲彦氏は、昭和
20年、銀行を辞めて、広島の三菱重工で訓育の仕事をしていた。
広島も空襲が激しくなるというので、家族は広島から30kmほど
離れた加計町に疎開した。

「8月6日の早朝、父(哲彦氏)は、学徒動員で三菱重工にはいって
くる学生たちを迎えに横川駅まで出向いていた。そしてトイレに
はいった瞬間、爆風で吹き飛ばされた。急いで外に出、待ち合わせ
の場所に行くと、無数の無残な学生たちの姿。生き残った人は
皆無だった」とある。

ここで私は、例の『読書日記』の記述の奇妙な話を思い出した。

広島の町は、32万人いたのが、8万人ほど疎開し、24万人ほどに
なっていた。そして畑俊六第二総軍司令官から「8月3日から
6日にかけて、学徒動員で学生を広島の町に集めろ」という指令が
出された。

6日までに、広島には、学徒動員の学生や軍人が多く集められて
いたという。これは何を意味するのか。なぜ8月6日にこだわったのか。

結論を言うと。アメリカは原爆の威力を細密に測定するために
50万単位の被験者が必要だった。その密約が天皇と交わされて
いた。市民は疎開して数が半減したために、畑司令官は、天皇の
命で、急ぎ軍人や学徒を呼び集めるよう指示した」というのだ。

おそろしや。真相はいかに。]]>

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