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平成の虚無僧一路の日記

「夢は夜開く」の作詞家「石坂まさを」氏逝く 

2013年03月16日 外部ブログ記事
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「圭子の夢は夜ひらく」石坂まさをさん死去(読売新聞) - goo ニュース

「石坂まさを(本名・沢ノ井竜二」さんが亡くなった。
「藤圭子」のヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」「新宿の女」
「女のブルース」などの作詩、作曲家。71歳だった。

新宿の歌舞伎町近くで生まれ育ち、小学校2年で父を
亡くし、母と二人で極貧の生活。その母が「産みの親」で
ないことを中学の時に知らされた。夜間高校に通うが
肺結核を患う。絶望の中で作詞家を目指す。職業を
転々としながら苦節10年。東京浅草で流しをしていた
「藤圭子(本名:阿部純子)に会う。

「藤」は、岩手県一関市生まれ、北海道旭川市育ち。
父親は旅回りの浪曲師。母親は「ゴゼ」だったという。
そのドスのきいた声で 1969年「新宿の女」でデビュー。
翌1970年「圭子の夢は夜開く」が空前の大ヒットとなった。

「70年安保闘争」で荒廃した世の中。「十五、十六、
十七と私の人生暗かった」。それは 二人が 歩んできた
人生そのまま。それがにじみ出るからこその共感を得た。

石坂まさを」は「藤圭子」のことを「戦友」と呼んで
いたという。この年「女のブルース」「命預けます」を
次々ヒットさせた。五木寛之は「藤圭子」の一連の歌を
『怨歌』と名付けた。

やがて バブル期には 芸能界から消えた。そんな時、
私は六本木のアマンドの前で「藤圭子」さんを見かけた。
口元に笑みをたたえた 輝くような 美しい顔だった。

そして バブル期、時代の寵児のように「宇多田ヒカル」が
一躍踊り出てきた。その母親が「藤圭子」と聞いた時、
私は 母娘のギャップに戸惑ったものである。

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