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平成の虚無僧一路の日記

明治天皇は松平定信の血筋!? 

2013年03月09日 外部ブログ記事
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明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。生母は「中山慶子」。

「中山慶子」は、大納言「中山忠能卿」と松浦家第34代
「松浦清山」の娘「愛子」との間に出来た娘。

その「松浦静山」の母方の祖母は「松平定信」の娘である。

つまり、「松平定信」−娘−娘−「松浦静山」−「愛子」
−「慶子」−「明治天皇」

というわけで、明治天皇の6代前が「松平定信」となる。
「松平定信」を祖と仰ぐ「桑名藩」にしてみれば、
「明治天皇」とは“縁続き”のはずだった。

鳥羽伏見で「会桑」を主力とする旧幕軍が敗れると、
突如「明治天皇」が颯爽と馬に乗って登場する。
御歳 15歳。中山忠能の屋敷で、母「慶子」の膝元で
女の子のように育てられていた“ひよわ”な御子が、
陽にやけた精悍な風貌で現れたのだ。

なんかおかしい。

昭和4年、かつて宮内大臣として権勢を振った田中光顕が、
「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。後醍醐天皇の子孫で、
長州萩で毛利氏が守護してきた人物。薩長連合には、
この南朝の末孫を天皇にするといとう密約があった」と
述べている。

「孝明天皇毒殺説」は、崩御の直後から流れた。

孝明天皇は妾の堀川紀子(岩倉具視の妹)の屋敷の便所で、
床下にかくれていた長州の下忍「伊藤博聞」の忍者刀に
よってお尻をえぐって殺された。容態を記した記録には
「下血」と記されている。

その子の「睦仁」は、御所に潜入した長州忍者の猿廻の猿に
よって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその傷口に
毒を塗って殺した」と、生々しい。


山口県柳井市田布施町に住む大室近祐(平成8年没)氏は、
「私は南朝の末蕎であり、明治天皇は祖父の兄・大室寅之祐です」と、
語っていた。

さて、明治天皇が替え玉で、長州の「大室寅之祐」と
なると、「松平定信」の血筋は途絶えていたことになる。

今ならDNA鑑定で明らかになるでしょぅな。

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