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平成の虚無僧一路の日記

松平忠頼 

2010年07月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



浜松、松平忠頼に仕え、町奉行格 500石」とある。

「松平忠頼」は、天正10年(1582年)松平忠吉の次男として
生まれ。叔父・松平家広の後を継いで、武蔵松山藩の藩主と
なり、さらに、美濃金山を経て、慶長6年(1601年)浜松
五万石の大名となる。

ところが、慶長14年(1609年)、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に
招かれた折、久米左平次と服部半八郎が囲碁の勝敗をめぐって
喧嘩となり、仲裁に入った忠頼が、逆上した久米左平次に刺殺
されてしまった。享年28。

事件の経緯から、桜井松平家は改易となった。当家の先祖も
ここで浪人となるが、忠頼の後、浜松城主となった水野重仲
に仕官し、水野氏が紀州徳川頼宣の御附家老となって新宮に
移封されるに従って、和歌山に移った。

今日、ネットで調べていて判ったが、紀州家には、松平忠頼の
三男、松平忠勝が1000石で召抱えられていた。忠勝は、父忠頼が
殺され、お家断絶となったため、叔父で桑名藩主、久松松平家の
定勝に引き取られ養子となっていた。

牧原の祖にしてみれば、旧藩主の遺児との再会である。



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