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平成の虚無僧一路の日記

竹久夢二が愛した会津の女性 

2013年01月27日 外部ブログ記事
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『平城山』同様、尺八で好んで吹かれる曲が『宵待ち草』。
植物学的には「マツヨイグサ(待宵草)」が正しく、「宵待ち草」
としたのは「竹下夢ニ」のようだ。

1910年(明治43年)夢二 27歳の夏、前年離婚したにもかかわらず、
よりを戻した「岸たまき」と 2歳の息子を伴い、房総方面に旅行する。
銚子から犬吠崎に向かい、あしか(海鹿)島の宮下旅館に滞在した。
ということで、「あしか島」に1971年(昭和46)「宵待草」の歌碑が
立てられた。

ところが「宵待草」の歌碑は会津にもある。

「竹久夢二」は、明治42年、大正10年、昭和5年と三度会津を訪れ、
東山温泉の「新滝旅館」に逗留しています。「新滝」は、平成21年度
から、「じゃらんnet売れた宿ランキング」で 3年連続「東北1位」。
とか。「大正ロマン」をポリシーにしているが、「夢ニが泊まった宿」
ということは、殊更に宣伝していない。

会津の気風は、「夢ニ」を“女垂らしの軟弱な男”と見て、歓迎は
していなかったようだ。

「会津史談会」の会報『会津史談』56号(昭和57年)に『夢ニと
会津』と題して、詳細が載っている。「夢ニ」は、篤志家の招きで
会津に来、求めに応じて数十点の絵を書き「頒布会」が催された。
「夢ニ」が会津で描いた絵は、退廃的な女性画は少なく、会津の風土を
色濃く出したものが多かった。これも会津の気風を感じとっての
ことであったようだ。

会津での「夢ニ」は、世間で噂されるような“女たらし”ではなく、
「人情の機微を解す、繊細な感情の優しい人」であったという。

その「新滝」に お抱えの芸妓の娘「トンボ」という女の子がいて
「夢ニ」は、その子をモデルにして、遊ぶ姿をよく描いた。

「夢ニ」は、会津若松市の西に流れる大川畔に足を運び、絵を
描いた。その堤には「月見草(まつよい草」が一面に咲いていた。

大川の高田橋畔に川魚料理の「川手」という店があり、「夢ニ」は
「トンボ」を誘った。男女並んでは歩けない会津だ。「夢ニ」は
先に行って待ったが、いくら待てども「トンボ」は来なかった。
「新滝」のお抱えの半玉である「トンボ」は、店外での客との
デートは禁じられていたのだ。

「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ、
 今宵は月も出ぬそうな」

『宵待草』の原詩は、明治45年(1912年) 雑誌『少女』誌上に、
“さみせんぐさ”の筆名で発表された。

1966年(昭和41)、千葉県より5年早く、大川畔に「歌碑」が
建てられた。ところが、この碑は、昭和51年には東山温泉の
雨降り滝下に移され、さらに56年には東山ケーブル駅前に
移された。そしてまた、ケーブルの廃業により、洗心橋近く
に移動させられた。「夢ニ」の生涯同様、「宵待草」の歌碑も
転々と放浪の憂き目にあった。

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