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たかが一人、されど一人

必要悪が認められない社会 

2012年06月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

世の中に必要悪が数多く存在するし、その事実は認めるべきではないか。ブログなど書いていると言わなくてもいいような事、言っても仕方のないことばかり書いてしまう。早く足を洗いなさいと言われるが、することの少ない老後の楽しみだから、なかなかそうはいかない。今日も大顰蹙を百も承知の介で書きたい。ネット上ですら同じことを公然と言っているのは作家の宮崎学氏くらいかもしれない。彼は元々滋賀県の何とか組と呼ばれる家に生まれたらしい。ご本人は早稲田大学出身(学生運動をやっていたようだ)で文筆業を生業にしているが、血は争えないところがあり、世の中を複眼的に見る感性を持っている。小生は普通のサラリーマンの子だから頭の構造はシンプルなものだ。従って年を取るにつれ、世の中の複雑さが益々分からなくなるばかりだ。しかし食物一つとっても、体の為になるとされるものが逆の作用をしたり、劇薬が病原を絶つこともあることぐらいは理解できる。人間社会も似たようなものだと思いたい。一人の人間でさえ表に現れている部分と隠れて見えない裏があるように、社会組織はそれ以上に外面的な評価の難しいものがある。世の中に存在するものを全て、善か悪か二項対立概念で割り切るのは難しい。一般論としては、これに異を唱える人は少ないだろう。しかし現代に於いては、日本の伝統的集団組織「ヤクザ」は完全に非合法化されてしまっている。宮崎氏のような専門家ではないので正確ではないが、一口に「ヤクザ」と括られている集団にもいろいろな種類がある事は知っている。主なものが「博徒」と「香具師(てきや)」の2集団らしい。昔は港湾の荷揚げ、鳶職、土方等の集団にも何とか組を名乗って、自ら「ヤクザ」の位置付けをしていたところも多かったろうし、他にも興行関係者やなんかも自らは同類と思っていた筈だ。しかし港湾労働、建設業や映画会社、放送局に勤務する人が非合法であるわけはないし、立派な職業人として大手を振って歩いているのはご承知の通り。しかし、不幸な事に博奕の開帳で生計を立てていた「博徒」だけは、その主たる生業を国家と警察に奪われたために、存在そのもが否定されてしまっている。生業を召し上がられても存在する組織はあり、その生命力については、倒産同然の零細事業者から見れば羨ましい。それはさて置き、当然ながらなんで食っているかと言えば、それこそ浜の真砂の喩え通り、世の中には非合法行為の種は幾らでもある。やれ金融だ、用心棒だと何をするにも背景には力が必要だ。そこで今や現代用語になっている「暴力団」に変身をしたのだろう。取り締まる側の警察でも、非合法な活動していない昔ながらのヤクザと区別するために、敢えて暴力団として特定して、メディアにその言葉を普及せしめている節もある。しかし普通の市民から見てそんな区別が分かる訳はない。つまらぬ事を書き綴ってしまったが、言いたかったのは「ヤクザ」組織壊滅を国家の大目標にするより、その存在を認める事の方が社会に有益ではとのことだ。思いついたのは数日前の大阪心斎橋での通り魔殺人事件。あの犯人がもしヤクザであれば、釈放直後あんなに悲惨な事件を起こさずに済んだのではと勝手に思ってしまった。犯人は一時暴力団にも入っていたような報道もあるが、多分本格的な構成員ではなかったのではないか。現代社会で中学卒業以来ずっと不良で、いい年になったムショ帰りの人間を雇うまともな会社が存在するとは思えない。一方刑務所は囚人を一定の刑期が終了すれば釈放をせざるを得ないが、ムショ帰りの人間が全員まともなるとはとても思えない。仮釈放などで刑務所から出所した人間を保護観察するシステムが存在しても、満期釈放の人についてはそのようなシステムは無いらしい。親兄弟からも見放され、法的なシステムでもウォッチできない犯罪者予備軍を管理するために最適な組織が「ヤクザ」組織と思う由縁である。前にも書いたが、日本のヤクザは、堂々と街中に看板を掲げる世界でも珍しい組織である。世のはみ出し者だけを集めて、管理していた親分はある意味で社会への奉仕者だったかもしれない。今はそんな親分はいないと言うかもしれないが、犯罪予備軍が個人でうろうろしているのが実情だとすると、何事も清潔無菌状態が好きで必要悪の存在を認めない現代社会は、市民安全のためと言いながら角を矯めて牛を殺しているように思えてならない。

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