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平成の虚無僧一路の日記

足利義満の天皇簒奪問題 

2012年05月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



足利3代将軍「義満」は 自分の子「義嗣(よしつぐ)」を
天皇にしようとしていた。これを「簒奪(さんだつ)」事件
といいます。

後小松天皇の父「後円融天皇」と「足利義満」は母
同士が姉妹で、従兄弟であり、しかも同い年でしたので、
義満は、「後円融天皇」にライバル心を持っていました。

また、後小松天皇は義満と後円融の后との不倫の子とも
噂されるほど、義満は後小松天皇に対し 父親のように
振舞うのです。そして、後小松天皇にわが子「義嗣」を
次の天皇にするよう強要します。

事実「義嗣の立太子」の儀まで行っています。義満の子
「義嗣」が皇太子となったのです。ところが、このわずか
2週間後、「義満」は謎の死を遂げます。

毒殺されたとされますが、その首謀者は? じゃじゃじゃ〜ん

なんと「義嗣」の母違いの兄「義持」という説が最近
浮上してきました。この時すでに、義満は将軍職を「義持」に
譲っていましたが、「義持」は名ばかりの将軍で、実権は
父の「義満」が握っておりました。「義持」にしてみれば、
母違いの弟が天皇になれば、弟の下に立たされることに
なります。それは腹にすえかねるという思いがあったで
しょう。

「将軍義持」は 父「義満」を暗殺し、「義満」がとり決めた
政策を悉く反故にします。「義満」の建てた相国寺も金閣寺
のみを残して、破却してしまいます。もちろん「義嗣」の
立太子の件も無かったことにしてしまいます。後には弟
「義嗣」を殺しています。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください

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