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平成の虚無僧一路の日記

細川頼之と一休 

2012年05月16日 外部ブログ記事
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足利3代将軍「義満」の補佐役だった「細川頼之」の
おかげで、「一休」が生まれたと 私は考えています。

1369年、「細川頼之」が 将軍「義満」の補佐役
として実権を握った年に、「楠木正勝」の弟「正儀
(まさのり)」が北朝に降ります。将軍「義満」は
まだ10歳でしたから、「楠木正儀」を迎え入れたのは
「細川頼之」の一存だったことでしょう。

「正儀」は 和泉・河内の守護に任ぜられますが、
1379年、細川頼之の失脚によって、北朝には居ずらく
なり、再び南朝に戻り、その後の足取りは不明です。

それから12年後、細川頼之は 赦免されて 京都に戻り、
幕政に参画しますが、翌1392年に亡くなります。
そして この年の10月、南朝の「後亀山天皇」が 
北朝の「後小松天皇」に 「三種の神器」を渡して
「南北朝の合一」が成ります。


さて、ここで「一休」の誕生です。「一休の年譜」には
「一休の母は 後小松天皇の寵愛を受ていたが、“南朝方の
臣の娘”であったため、“剣を懐にしのばせて帝の命を
狙っている”と 后に讒言され、宮中を追われて 田舎で
一休(千菊丸)を産んだ」と書かれているのです。

この「南朝方の臣」とは誰か。『橘氏楠木家系図』に、
「楠木正儀の子正澄の娘が入内して、後小松天皇の寵を
受け、一休を産む」と書かれているのです。

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