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平成の虚無僧一路の日記

「頼朝」の生誕地は名古屋市熱田 

2012年04月17日 外部ブログ記事
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平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると、その愛妾
「常盤御前」は3人の子を連れて雪の中を逃げ回り、
捕らえられる。3人の子とは、今若(後の阿野全成)、
乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)。

頼朝はいない。源頼朝の母は、なんと熱田神宮の
宮司「藤原季範」の娘「由良御前」。

近衛天皇の中宮九条院の雑仕女であった「常盤御前」
とは格がちがった。頼朝には、さらに二人の兄が
いたが、二人共腹違い。というわけで、三男の頼朝が
「正室」の子として源氏の嫡流となった。それで、
「義経」ら兄弟には冷淡だったのだ。

であるから、頼朝の「誕生地」の碑が、熱田神宮の
近くにある。「熱田にあった!」とは、私も名古屋に
来て知った。

父「義朝」の終焉の地も愛知県内なのだ。名古屋の南に
伸びる知多半島の「野間」。家人でもあった長田忠致
を頼って野間まで落ち延び、やれやれと安堵したところで、
恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲われた。
入浴中だから裸だった。最期の言葉は「「我れに木太刀の
一本なりともあれば」叫んだとされる。

それで「義朝の墓」に詣でるには「木刀」を添えることに
なっていて、墓の上にはたくさんの木刀が積まれている。

今 NHK大河ドラマで『平清盛』をやっているのだから、
そのライバルの「源義朝、頼朝」父子ゆかりの地も
もっと宣伝すれば良いのにと思うが、名古屋人は
歴史には関心がうすい。過去を振り返らないのだ。

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