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平成の虚無僧一路の日記

ペリー以前にもアメリカ人は来ていた! 

2012年02月21日 外部ブログ記事
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「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」。
嘉永6年(1853年)、ペリーの来航で、天地がひっくり
返ったかのようなこの句で、われわれは、この年、
アメリカ人が初めて日本に来たと教えられてきた。
「日本史教育」の欺瞞と嘘だ。

なんと、ペリー来航の前に、アメリカの来航は20件も
あったと知って、またまた驚いた。

1795年、オランダはフランスの革命軍に占領され、
バタビア共和国が誕生。オランダの海外植民地は
イギリスに接収された。オランダが弱体化したことで、
ロシア、イギリス、アメリカの艦隊が 日本との通商を
求めて、一斉に動きだした。

但し、日本は手強い国と認知されていたから、米国船は
「オランダ国旗」を掲げて、オランダ船として 長崎の
出島に入港し 貿易を行った。だから、記録の上では、
すべて「オランダ船」なのだ。

1808年の「フェートン号事件」は、イギリスの軍艦が
オランダ国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ商館の
オランダ人を人質にして、水、薪炭、食料を要求し、
逃げ去った。誰も被害はなかったのだが、この件で
長崎奉行の松平康英は切腹した。その後もイギリス船が
日本に接近しており、幕府は「異国船打払令」を出す。

1837年(天保8年)「モリソン号事件」は、音吉など
漂流民を日本に送り届けるため浦賀に来航したが、
「打払令」で撃退される。

1845年(弘化2年)捕鯨船「マンハッタン号」が、22人の
日本人漂流民を救助し、浦賀への入港。

1846年(弘化3年) アメリカ東インド艦隊「コロンバス号、
ビンセンス号」が浦賀に来航し通商を求めるも拒否される。
1853年(嘉永6年)ペリー来航の6年も前に「米軍艦」が
浦賀に来ていたのだ。

広島の原爆にしても、アメリカは40発以上もの模擬爆弾を
日本各地に投下して、日本の防空力も試した上で、投下
した。ペーリーも行き当たりばったりで来たのではなく、
用意周到に日本のことをすべて調べつくした上で来たの
だった。

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