メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

高野長英 

2012年02月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



最近知り合った男性お二人。偶然にも、二人共
「最も尊敬する人物は『高野長英』だという。

私の祖父は『牧原長英』という。たぶん「高野長英」に
ちなんで つけられた名であろう。曽祖父は、幕末に
蘭医を学び、明治になって村人を相手に“町医者”の
ようなことをやっていたからだ。

「高野長英」は、1804(文化元)年 生まれ。
長崎でシーボルトの「鳴滝塾」で学び、蘭学医と
なるが、幕府の「鎖国政策、異国船打払令」を批判
したかどで、1839(天保10)年 捕らえられた。
「蛮社の獄」だ。
その後 火事に乗じて脱獄し、宇和島に潜伏。1850
(嘉永3)年、江戸に戻っていたところを捕縛されて
自決。47歳だった。明治になる18年前。幕末の志士
より四半世紀早く、「開国」への口火を付けた人物
だった。

先日、オウムの平田容疑者が17年も潜伏して、ついに
自首して出てきたが、隣近所疎遠の現代だからこそ
できたことだ。


江戸時代は、江戸から外に出るには「見付け」という
木戸を通らねばならず、夜は木戸を閉められるから、
時代劇のように、簡単に江戸からは出られない。

江戸を抜けても「関所」があるから、通行手形を
持たないと、箱根から西へは行けなかった。

だが、高野長英は四国宇和島まで行って、そこで
匿われていた。やがて、幕府にバレそうになり、
江戸まで引き返している。その道筋に関心がある。

江戸の町で潜伏するにも「隣組制度」や「辻番所」で、
始終“よそ者”に目を光らされているから、勝手に
住むことはできない。

脱獄して、虚無僧寺に逃げ込み、虚無僧になろうと
したが、身分は「町医者」で士分でなかったために
断られたという。

虚無僧も、「一般人が 宿を貸す(泊める)」ことは
禁止されていたのだ。木賃宿に泊まるか、野宿。
この場合でも、村人は虚無僧を見かけたら、すぐ
村役人に届けなければならなかった。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ