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平成の虚無僧一路の日記

仕事の神様「村野藤吾」 

2012年02月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「村野藤吾」の美意識、仕事への執念、生き様に、私は
深く感銘受け、「村野信奉者」の一人となった。

村野藤吾は、93歳で まだ「新高輪ホテル」の茶室、
「宝ヶ池プリンスホテル」「横浜プリンスホテル」
「都ホテル大阪」他数件の建設に携わっていた。
それだけでも驚異だ。

亡くなる前日、村野藤吾は宝塚の自邸におり、「新高輪
プリンスホテル」内の「茶寮 惠庵」について、送られて
きた図面を見て、「違うじゃないか」と激怒。すぐ、
飛行機の手配をさせ、東京に向かおうとした。その時、
興奮していて靴下も履けなかった。そこで頭に血が上った
のか、そのまま帰らぬ人となってしまったという。

1本の線も、1cmも妥協を許さない。新高輪の巨大な
岩などは、自ら鞍馬の山に登って、気にいった岩を
指差し「あれを」と。 “云うは易い”が、部下に
とっては、地権者との交渉、買付から切り出しまで、
大変な作業だ。

「興銀ビル」の赤い花崗岩などは、アメリカまで行って、
飛行機の窓からロッキー山脈を見下ろして、「あの岩を
そっくり東京へ運びなさい」と部下に指示したという。
千代田生命のエントランスホールの真っ白い大理石は
ユーゴスラビア産だ。まだ共産圏で国交も無い時代の
ことだ。あのような「真っ白」の大理石はもう入手でき
ないという。

村野にとって「不可能」は無いのだ。しぶる部下に
「君は、何のために金をもらっているのかね」と皮肉を
言ったそうな。

こんな人が上司だったら恐ろしい。今の人なら ストレスで
ノイローゼ、鬱病 続出だろう。だが「村野先生だから」
「神様だから」みな素直に従った。そんな“神様”の
ように崇められる建築家が 今の世にいるだろうか。
まさに“不世出”の「建築の神様」だった。

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