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平成の虚無僧一路の日記

センター試験に「市川房枝」 

2012年01月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私が学生の頃は「歴史は100年経たないと歴史学の対象には
ならない」などと云われ、日本史は「幕末」までだった。
今日のセンター試験「日本史」では明治、大正、昭和も
戦後まで出題されている。

「市川房枝」も出たようだ。今の高校生が「市川房枝」を
知っているとは思えない。そこまで教科書で覚える事
なのかと驚きである。

私の祖母は、福島県会津若松市の「婦人会会長」を務め、
「市川房枝」に傾倒し、婦人会の大会などで、よく上京し、
東京のわが家に泊まった。それで「市川房江」の話は
よく聞かされていた。


市川 房枝は、1893年〈明治26年〉愛知県中島郡明地村
(現在の 一宮市)に生まれる。愛知県女子師範学校
(現在の愛知教育大学の前身)在学中に、「良妻賢母教育」に
反対して、同級生と授業ボイコットを実施し、後の婦人運動家
としての活動を予感させた。

1917年(大正7年)名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となり。
1919年(大正8年)に平塚雷鳥らと日本初の「婦人団体新婦人協会」を
設立。

戦後、1945年(昭和20年)「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。
12月17日には衆議院議員選挙法改正で 「婦人参政権(男女普通選挙)」が
実現した。

1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から
立候補し当選。通算5期25年務めた。組織に頼らず個人的な支援者が
手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」と
まで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとして
さまざまな選挙浄化運動に参加した。私の祖母もその支援者の一人
だった。

菅 直人(前首相)が「1974年の参議院選挙で、市川房枝の選挙事務所
代表を務めたことで、政治に関わることとなった」と言っているが、
市川房枝の方は、菅直人のことを 快くは 思っていなかったようだ。

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