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平成の虚無僧一路の日記

北海道の開拓 

2011年11月22日 外部ブログ記事
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北海道の東側は会津藩、西側は庄内藩(山形)領だった。
その領地をプロイセン(現ドイツ)に売り渡そうとした。

当時の日本人の感覚では、「蝦夷地(北海道)」は、
米がとれないということで、「無価値、不毛の地」だった。

それに対して、駐日プロイセン公使の「ブラント」は
2回も蝦夷地を訪れ、その土地の価値を充分に評価して
いた。

「ブラント」に同行した農業専門家「ゲルトナー」が、
「北海道は緯度がドイツと同じ、気候も似ている。
土地は広大、水は豊か、牧畜や、ジャガイモ・麦などの
栽培に最適である」と判断したのである。

蝦夷地をプロイセンの植民地とする話しは、本国の
ビスマルクによって却下されてしまったが、ゲルトナーは
あきらめなかった。

戊辰戦争は会津の敗北で終わったが、榎本武揚や
大鳥圭介ら脱出組が、北海道で「共和国」を建設した。
明治2年(1869年)ブラントとゲルトナーは、この
新共和国に接近して、七重村300万坪を99年間租借
する契約締結に成功した。

これに怒ったのが、明治新政府。函館戦争で榎本らを
破り、翌明治3年、明治政府は補償金6万2500ドルを
支払って租借権、開墾権の契約を無効にした。

これで、プロイセン(ドイツ)の北海道侵略の野望は
費えたが、このゲルトナーの構想をそっくりいた
だいたのが、ドイツ系アメリカ人「クラーク」。
「少年よ大志を抱け」の人だ。

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