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平成の虚無僧一路の日記

なむやみ(闇)だぶつ 

2011年11月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



中日新聞連載、五木寛之『親鸞』。いよいよ核心に触れてきた。

どんな悪人も「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、極楽
浄土に往生できるのか? 極悪非道の悪人でも救われる
なら、この世で悪の限りを尽くした方がいい。強姦も
窃盗も殺人もしたい放題。しなきゃソンソン。

「念仏」は そうした危うい理解を孕んでいる。

悪事を働いた時は「わるのりだぶつ(悪乗り打仏)」。

闇の中での淫靡な快楽には「なむやみ(闇)だぶつ」

「なみのりだぶつ(波乗り舵物)」。これはサーファーの
ブログで見つけた。「波に任せる身は、仏法の悟りと
共通する」と。

「難有りだぶつく」。これは欠陥商品が大量に返品され、
倒産に追い込まれた悪徳店主の救いを求める念仏。

守銭奴が、悪事で稼いだ金を数える時は「ナンマイダ、
ナンマイダ、何枚だ」。


ところで、「釈迦も見捨てた女人や極悪人を、唯一
阿弥陀如来だけはお救いくださる」と、いったい誰が
言ったのか?。釈迦がそんなこと言ったのかいな。
釈迦は、「人々をあまねく救う」といいながら、
「女人と悪人だけは救えない。救ってもらいたければ、
阿弥陀如来に頼め」と、自らの役割を放棄したことになる。

「阿弥陀信仰」は釈迦を見限って「阿弥陀如来」に
唯一帰依するというのだから「釈迦仏教」ではない。
「阿弥陀“教”」だろうと私は考えるのだが・・・・

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