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平成の虚無僧一路の日記

邦楽は音楽か? 

2011年11月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



最近は「facebook」に はまってしまって、ブログが
おろそかになり スミマセン。

「facebook」で、Oさんと こんなやりとりがありました。

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昨今の大方の邦楽演奏家は「楽譜を弾いている」のであって、
「音楽を表現している」とはいえない。古典も、流派としての
「学習的古典でしかない」。

音色ひとつひとつを吟味して、「盲人にはできなかった色彩・
映像感ある音楽表現としての古典」に取り組んでいかないか

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まさに、わが意を得たり。

地唄は、どれを聞いても同じように聞こえる。それはそうだ
「地唄は盲人の音楽なのだから、色をつけてはいかん」。

なんていう大先生が多い中で、私の師「堀井小二朗」は、
「邦楽も音楽だよ、花風鳥月、色も情景も 心も 表さな
ければ」古典は滅びると説いた。
『残月』『楫枕』『夕顔』『ままの川』『新娘道成寺』
そして『千鳥』『六段』。そのくらいしか習わなかったが、
全部曲想が違う。それを表すためには、最初の一音から、
同じ「レ」の音であっても、音色、音質、強弱を変える
ことで、その曲の内容を表すように と。

私は、そのように心がけてきた。先年、NHK FMラジオ
「邦楽のひととき」で、梶田昌艶先生と『千鳥の曲』を
演奏した時、琴古でも都山でもない手付けで、波や磯、
千鳥の鳴声を表現した。

「古曲にトレモロなんてトンドモない」という お叱り
覚悟だったが、一部の方からは「すごい新鮮だった」
「磯に遊ぶ千鳥が目に浮かんだ」と評価いただいた。

しかしその声が、潮流とならないのは、流派にどっぷり
浸っている方々には、自分の流派の楽譜通りにキチンと
吹くことしか念頭にないから、全く理解できないようだ。


宮城道雄氏も「自分は目は見えないが、音にはそれぞれ
色がある」と語っている。「楽譜を出版したことで、琴の
曲は飛躍的に広まったが、反面、“曲”が失われた」とも。

「盲人にはできなかった色彩・映像感ある音楽表現としての
古典」に取り組むことに、私も参加したいが、その“違い”
がわかる人が居なくなってしまった。

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