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痩田肥利太衛門残日録その二

本居宣長の義理の曾孫で幕末・明治期に活躍した国学者・歌人 本居豊頴(もとおり とよかい)が評論した田道間守(たじまもり) 

2024年01月29日 外部ブログ記事
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田道間守慟哭の絵



田道間守の評論文語意調査表

私は公爵、伯爵などの爵位や博士の学位を持つ明治時代の有名人が尊敬に値する人物を評論した明治32年発行の「明治名家古人評論」という文庫本サイズの祖父の蔵書を持っています。
これまで、その中から「ラ・ファイエット」、「上杉謙信」、「鄭成功」を取り上げ、ブログで紹介しましたが、今回は「お菓子の神様」の田道間守(たじまもり)について紹介します。
今回のテーマ「田道間守」を評論した本居豊頴(もとおり とよかい)」という人はこ爵位や博士を持っていませんが、国学者・歌人として、教育者・評論家の「杉浦重剛」と同様に、明治時代に日本文化の発展に貢献した功労者の一人でした。
yaseta.hateblo.jp
本居豊頴は「源氏物語」「万葉集」「古事記」などを論じ、「古事記伝」を著作した本居宣長(もとおりよりなが)の義理の曾孫であり、古典文学などに多くの著作を残し、正三位の官位と勲章「旭日重光章」を授与された紀州藩出身の国学者・歌人でした。(下記 参考1)
【田道間守(たじまもり)とは】古事記・日本書紀の中の垂仁天皇の時代の神話の人物で、但馬の国の国守と伝えられています。田道間守は第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)に命じられ、常世国(とこよのくに)の非時香菓(ときじくのかくのみ)を求め旅立ちました。そして、幾多の困難を乗り越え、10年の歳月かけ、非時香菓を持ち帰りました。
しかし、既に遅く、垂仁天皇は崩御されていたため、香りの良く、八竿八縵(やほこやかげ)のように実がなっている非時香菓を御陵に献じ、落胆のあまり泣き叫び、亡くなったと伝えられています。
田道間守が持ち帰った霊菓 非時香菓(ときじくのかくのみ)は、橘(たちばな)の木であるとされていいます。また、この霊菓をもたらしたことで、田道間守は「菓子の祖」(昔は果物も菓子とみなされていた)とされ、中嶋神社の祭神として和菓子業者より崇敬(すうけい)を受けています。
【明治名家古人評論 田道間守(たじまもり)】執筆者「幕末・明治期の国学者・歌人 本居豊頴(もとおり とよかい)」
田道間守(たじまもり)は新羅國(しんらこく)より帰化したる天日槍(アメノヒボコ)の裔(えい)にて、垂仁天皇の御時に命(めい)を蒙(こおむ)りて常世國(とこよのくに)に渡り、非時香菓(ひじこうか)を求得(もとめ)て来たりし人なり。
然るに帰朝の前、既に天皇は崩(ほう)し給(たま)へるを以て大(おおい)に落胆し、遂に天皇の陵前(りくぜん)に於(おい)て死したり。
然るに其の死したる状(じょう)を記せる伝説二ありて、
古事記には『フ其木實、叫哭以白“常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍”遂叫哭死也』-----------------------・上記文章の意味『その木の実をフ(かか)げて叫(さけ)び哭(おら)びて白(申、もう)さく、“常世国(とこよのくに)のときじくのかくのみを持ちて参上(まい)りて侍(はべら)ふ。” 遂に、叫哭(泣き叫び)のあまり、死に絶えました。』-----------------------
とありて、叫哭(きょうこく)の余りに死に及(およ)へるゑ(え)り
日本書紀には、『今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣」乃向天皇之陵、叫哭而自死之』-----------------------・上記文章の意味『今、天皇はすでに亡くなり、復命(報告)ができず、臣(田道間守のこと)は生きていても、何の益があろうか。」 天皇の陵(みささぎ)に向かい、叫哭(きょうこく)し、自害しました。』-----------------------
とありて、自ら死を決し剣に伏したる状(じょう)なり、
いずれが是(ぜ)ならん。今之を決せんとするに証なき以上は、いづれを非とも定め難き事ながら、既に先輩も論じたるが如く、当時の実況と当時の人情とを以て之を察すれば、古事記の伝説即ち事実にして、日本書紀の文は撰者の潤飾(じゅんしょく)ゑ(え)ると明らかなり。(潤飾(じゅんしょく):表面をつくろい飾ること)
垂仁天皇の頃の人情の質朴実着なるに、「臣雖生之、亦何益」などいう理論めきたる事はいうべきもあらず。(臣(田道間守)は生きていても、何の益があろうか)
故に田道間守はただ誠一に天皇の命を奉じて辛苦を顧みず、単身渡航して得て帰れる非時香菓を天皇の御在世中に献ずるを得ざるしを悔いて已(や)む能(あた)はざりし単純の熱心の極、遂に死にいたれりにて、愚かなるが如くなれども、上古人の単純なる士気皆かくの如くゑ(え)りしを知るべきなり。
海行かは、みつく(水漬く)、かはね(屍)、山行かは、草むす骨、などいえる語あるも亦之を以て察すべし。(海では溺れて死んだ人の屍が海水に溶け消えていく、山では遭難して死んだ人の屍が草に覆われて骨になる)
近世のことと雖(いえど)も史に記せると其の内幕の事実とは大(おおひ)に反したる事無き能(あた)わず、況(いわん)や上古の事実を見んとするには先能く当時の現状を察せしずて記文の美なるをのみ取らば大いなる誤りとなりぬべし。(近世の出来事といえども、歴史書に記された出来事と当時の実際の出来事とは必ずしも一致しているとは限らない。ましてや古代の出来事であれば歴史書の美文だけで判断すれば間違ってしまう。)
此のころある学校にて生徒の為にこの天皇の紀を講ずとて心に感ずることありしついでに概論したるかたはしなり。(ある時期、ある学校で、生徒のために天皇の紀を講義したとき、心に感ずることがあり、そのついでに概論をした。“かたはし:江戸時代の文語体で物事の端や末端、あるいは、ある物事の始まりや終わりを表す言葉”)
因みに云う非時香菓といふは日本書紀に今(いま)謂(い)ふ橘(たちばな)是(これ)也(なり)と注(しう)したれど、今日世にタチバナと称するものには限らず、橘柑(きっかん、柑橘)の類の総称にて現に田道間守の持ち帰りしは蜜柑(みかん)なるか橙(だいだい)か、其れは詳(つまびらか)ならねど、上古にタチバナといひしは其の味好き物なるは明かなり。
諸兄公に橘姓を賜(たま)へる時のにも、橘は菓子之長とあり、又後世、橘の歌には必ず昔を慕ふ意(こころ)を詠(ゑい)ずる事なるか、
何の故なるか詳(つまびらか)ならねど、この田道間守の故事より出たる習慣ならんと或る人はいへり、然(さ)もあるべし。
【参考】1.本居豊穎の経歴天保5年(1834年)紀州和歌山生れ、大正2年(1913年)死去。本居 豊穎(もとおり とよかい)本居宣長の義理の曾孫で幕末・明治期に活躍した国学者・歌人。父 本居内遠 死去後、母 藤子の教導を得て家学を修める。父の後を継いで紀州藩の江戸藩校 古学館の教授となる。明治維新後、政府・東京神田神社の神祇官、神道大教正として神道の振興に尽力した。女子高等師範学校教授、東京帝国大学講師、國學院講師を歴任した。大正天皇の皇太子時代には東宮侍講・御歌所寄人を勤める。1906年に帝国学士院会員になる。国学・和歌の興隆を願って大八洲学会を主宰した。明治24年(1891年)三条実美が死去した際に葬儀斎主を務めた。明治34年(1901年) 従四位 授与される。明治39年(1906年) 正四位 授与される。明治42年(1909年) 業績により文学博士号を授与される。大正2年 (1913年) 正三位、 勲章「旭日重光章」授与される。「古今和歌集講義」「本居雑考」「打聴鶯蛙集」や歌集「秋屋集」「秋屋集拾遺」、祭詞集「諄辞集」など著書・訳書・編書多数。2.「明治名家古人評論」 勢多 章之,博文館,1899.12.16(明治32年)
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