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戦跡ツーリズム「廣澤眞臣」(ひろさわまさおみ) 

2023年10月27日 外部ブログ記事
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(ひろさわ まさおみ)

広沢真臣 - Wikipedia


「白百合学園」と「廣澤眞臣遭難の地」及び「靖国神社敷地」の関連を靖国神社に問い合わせをしましたが、「東京招魂社地図」以上の沿革は判りませんでした。

日比谷図書館には「元禄・文政・天保・明治江戸大絵図」がありませんでしたが、千代田区文化財課学芸員から廣澤真臣自宅は「麹町区富士見町二丁目二十九番地」にあったと確認しました。
日比谷図書館蔵書



広沢真臣暗殺−神域の闇の淵で−
白百合学園(広沢真臣邸宅跡)
広沢真臣暗殺〜犯人は? 動機は? 黒幕は? 真相究明されぬまま迷宮入り 
大村益次郎暗殺事件 もう一人の男(3) 広沢真臣の暗殺




幕府追討密勅

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広沢真臣墓「東京都文化財情報データーベース」の解説文昭和一五年二月標識設置。昭和三〇年三月二十八日都旧跡指定「解説文」広沢真臣(一八三三〜七一)は長州萩藩士で幕末維新期の志士です。尊王壌夷派に接近し、下関砲撃事件に参加、和平交渉も担当します。第二次長州征伐の指導的対応にあたり、勝海舟と巌島で休戦協定を締結します。薩長同盟の締結にも関与します。維新後、民部官副知事や参議などに就任し、長州閥を代表する存在となります。明治四年(一八七一)に麹町私邸にて暗殺されました。始め愛宕の青松寺に葬られましたが、後に世田谷大夫山に改葬されました。暗殺犯人は不明のままでした。山口市の「大内文化まちづくり」 松陰神社にはまた、大正14年(1925)広沢の神道碑が建立されています。(※神道碑は勅撰銅碑ともいい、明治天皇の命で国家に功績のあった8人――毛利敬親・木戸孝允・大久保利通・三条実美・大原重徳・広沢真臣・島津久光・岩倉具視――を顕彰する目的で建立されました。わずか8人のうちに入っていますから、維新における広沢真臣の功績の大きさがわかります。) また、明治12年(1879)に木戸孝允の木戸家、大久保利通の大久保家とともに、広沢家は華族に列せられました。華族令制定以前に士族から華族になったのはこの三家だけです。山口県防府市の毛利博物館明治維新と毛利氏嘉永6年(1853)における黒船来航は、江戸幕府の諸体制に少なからぬ動揺をもたらした。この事件を契機として、外様大名であった長州藩も各種の献策などによって中央政界の動向に関与するようになる。文久元年(1861)に藩主毛利敬親(もうりたかちか)が藩士長井雅楽(ながいうた)の献策を容れて朝廷に奏上した航海遠略策などは、その最たる事例である。しかし開国による国内の混乱が深まると強硬な攘夷論に転換し、文久3年(1864)の8月18日の政変や、翌元治元年(1865)の蛤御門の変(禁門の変)によって、幕府や会津藩など幕府を支持する諸勢力から排斥されるにいたった。その後幕府による2度の攻撃を切り抜けた長州藩は、倒幕に転じた薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視ら倒幕急進派の公家たちと組んで討幕の密勅を入手し、徳川幕府の打倒を図った。その後の戊辰戦争で倒幕を実現した長州藩は、その後の明治維新改革の中軸を担う人材を輩出し、敬親の跡を継いだ最後の藩主毛利元徳(もうりもとのり)も、新たに創設された華族制度の最高位である公爵の地位を授けられた。これは慶応3年(1867)10月14日付で長州藩主毛利敬親・定広(さだひろ:のちの元徳)父子に対して朝廷から出された、討幕を命じた内々の勅命である。この勅命は勅としての書式としては異例のものであること、文面も通常の勅とは異なることなどから、現在では正式な手続を経て発行された勅命ではないと考えられている。一方、この日将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還したことから、この時は密勅を受けた薩摩・長州両藩による討幕は実現しなかった。しかし、こうした勅命を与えられたことは、この後両藩を中心とした討幕運動に際し、大きな根拠となったとされている。この年12月には、それまで討伐の対象とされていた長州藩主の罪は許され、官位も復旧し、入京が許されるとともに、王政復古の大号令が発せられた。さらに勢いを増した急進派は、翌年正月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を打ち破ると、武力討幕の実現に向けて動き出すことになる。倒幕の密勅(訓読文)詔す。源慶喜、累(るい)世(せい)の威を籍(か)り、闔族(かふぞく)の強を恃(た)み、妄(みだり)に忠良を賊害し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おとし)し顧みず、罪悪の至る所、神州将(まさ)に傾覆(けいふく)せんとす。 朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしよう)に報いむや。これ、朕の憂憤(いうふん)の在る所、諒(りよう)闇(あん)を顧みざるは、萬(ばん)已(や)むべからざれば也。汝、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊を山嶽の安きに措(お)くべし。此れ朕の願なれば、敢へて或(まど)ひ懈(おこた)ること無かれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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