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【第26回戦争遺跡保存全国シンポジウム・横須賀おっぱま大会】川口重雄さんのレポート 

2023年09月19日 外部ブログ記事
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元田園調布学園高中学校社会科教諭川口重雄さんからのメールの一部を転載します。「戦争遺跡保存全国シンポジウム」には、毎年参加してきましたが、最近はご無沙汰をしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?各位              9月18日〔本日第1信〕お早うございます。今朝も多摩川河畔にはまるで夏のような日差しが降り注いでいます。9月16日から昨日18日までの3日間、横須賀市で開かれた戦争遺跡保存全国シンポジウムに参加しました。その間の9月18日は満州事変のきっかけとなった柳条湖事件を関東軍が起こした日から92年目の日。日本のメディアはほとんど取り上げていません。今日19日未明(現地時間18日)、スイス・ジュネーブ国連ヨーロッパ本部で開かれている人権理事会で、玉城デニー沖縄県知事が米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設反対を演説しました。90秒間と今朝のTBSラジオは報じていますが、「国土面積の1%に満たない沖縄県に、在日弁軍基地の70%が集中するところへ新たに基地を建設しようとしている」と。沖縄県知事の同理事会での演説は、2015年9月に翁長雄志前知事(故人)が都道府県知事で初めて演説して以来のことだそうです。【第26回戦争遺跡保存全国シンポジウム・横須賀おっぱま大会】▼9月16日(土)プレフィールドワーク「野島と掩体壕」(9時〜10時30分ごろ)、全体会・講演会(13時〜17時)、交流懇親会(18時〜20時) 追浜コミュニティセンター1.プレフィールドワーク「野島と掩体壕」9時 京浜急行金沢八景駅→(シーサイドライン)→野島公園 野島掩体壕(敗戦直前の1945年3月15日〜6月30日掘削工事)野島掩体壕:旧横須賀海軍航空隊基地の戦闘機を米軍の空襲から守る施設として、標高約55mの野島山の東西に貫通して建設された。長さ約260m、東西2つの出入り口部分は、幅約20m、高さ約7m、長さ74m・84.5mで、トンネル状にコンクリートが打設されている。中央部分は幅約10m、高さ約8m、長さ100mの素掘り。@掩体壕見学 金属板で塞がれている西側の開口部を横浜市職員の方にカギを開けてもらって、ほんの数メートル見学。ところが、錆びたリヤカーや廃タイヤ、廃材、廃プラスチック類が多く転がっていて、横浜市の遺跡保存の本気度は疑わしいものです。野島山の周囲をめぐって東側の開口部(こちらも金属板で塞がれています)を見ようとすると、鷹取川に排水口から出される水の臭いが鼻を衝きます。鷹取川の向こう側は日産追浜工場-大学5年の時(1980年)にアルバイトで働いていた現場です。野島山の山頂には「野島貝塚」の標柱が立っています。山頂からは旧横須賀海軍航空隊跡、ということは日産追浜工場、同テストコース、住友重工業などの工場群、そして夏島が一望できます。横須賀・追浜が軍隊の街、基地の街、そして工場の街であることを実感させます。駅からシンポジウム会場の追浜コミュニティセンターまでの10分ほどの「夏島海岸通り」(中央商店街)は今や閑古鳥が鳴きそうな半分シャッター通り。1980年日産追浜工場鋳物部でアルバイトしていた当時は、一日3交代制で工場はフル稼働、商店街は人で溢れていました。A旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財)見学 1898年に建てられた茅葺き寄棟屋根の別荘建築(夏島のふもとから移設・保存)です。2006年11月横浜市指定有形文化財に指定、2007年から解体工事・調査、2009年10月竣工、庭園とともに一般公開しました(公開直後に見学しました)。明治時代には金沢八景、金沢文庫など現・横浜市南部の海岸は、海浜別荘地となり、松方正義、井上馨らが別荘を設けました。伊藤博文の別荘は現存する建物の前からあり、大日本帝国憲法(明治憲法)の草案が考えられた場所ですが、ジョリュジュ・ビゴーが「夏島の美姫の膝枕」でうたた寝をする伊藤がからかわれています(『トバエ』)。広すぎて、いささか居心地が悪いです。午後1時の受付まで時間があるので、徒歩20分で追浜コミュニティセンターへ。途中「乙舳」(おっとも)という地名表記があったり、狛犬が逆立ちしている真言宗御室派染王寺を地元の方と歩いて見学、夕照(ゆうしょう)橋を渡り、鷹取川沿いに横須賀市内へ入りました。全体会後には、コロナ禍も下火になって第1日目恒例の交流懇親会が復活、地元産の刺身盛り合わせ(カマス刺しが珍しい)をビール、芋焼酎でいただきました。▼9月17日(日):分科会(9時〜16時)1.「保存運動の現状と課題」2.「調査の方法と保存整備の技術」3.「平和博物館と次世代への継承」、閉会集会中田均(浅川地下壕の保存をすすめる会)「北海道での本土決戦態勢-太平洋沿岸のトーチカ群」 中田さんの8年にわたる現地調査、3D復元の結果がよく分かりました。喜田美登里・山田譲(日吉台地下壕保存の会)「小中学校への出張授業で生徒が好反応」 コロナ禍の2020〜22年の「苦しい時」の保存の会の取り組みがよく分かりました。池田恵理子(NPO法人安房文化遺産フォーラム)「館山まるごと博物館から東京湾エコミュージアムへ」 20年以上にわたり地元館山の文化遺産の継承に携わっている池田さんは、エコミュージアムからピースミュージアムへの発展を目指しています。▼9月18日(月)現地見学会「三浦半島に残る本土の決戦の遺跡見学会」8時30分〜16時20分京急横須賀中央駅→平和中央公園(米ヶ浜砲台跡)→電力中央研究所(旧大楠海軍機関学校)→長井海の手公園 ソレイユの丘(第一武山海軍航空隊基地跡)→城ケ島公園(城ケ島砲台・放題地下弾薬庫跡)→三浦市諸磯(もろいそ)→油壷(バス車窓から)→京急三崎口米ヶ浜砲台跡:1891年に建設された東京湾要塞を校正する砲台の1つ。1923年に演習砲台に改築され、1945年の敗戦まで使用された。旧大楠海軍機関学校:海軍工機学校の分校として開設された。1945年の敗戦間際には特攻要員の教育も行われたという。現在では、跡地に電力中央研究所(1951年設立)が設けられているが、構内裏の崖のなかには避難用と考えられている武山地下壕がある。第一武山海軍航空基地:1945年の敗戦間際に長井の台地上に建設された。特攻用の航空基地かといわれている。城ケ島砲台:ワシントン海軍軍縮条約の調印(1922年)・発効(1923年)により除籍(廃艦)となった戦艦「安芸」の副砲25.4センチ(45口径)カノン砲(最大射程24.6キロ)を用いて造られた2つの砲台。1923年の関東大震災で破損した東京湾要塞復旧工事の一環で新設された砲台。対岸の千葉県館山の須崎第一砲台とともに、東京湾口防御の第一線を担う。城ケ島砲台地下弾薬庫跡:砲台地下に2つの地下弾薬庫が造られた。諸磯湾特攻基地:油壷湾、諸磯湾には、特攻部隊の第1〜3海龍隊が展開、諸磯湾の北岸には海龍の格納壕や各種の地下壕が築かれた。以上、見学会「要項」による。横須賀の戦争遺跡研究の第一人者 デビッド佐藤さんのご案内と詳細な説明で、いかに東京湾口の横須賀市・三浦市が丸ごと要塞地帯だったかを実感しました。跡地のそこここには3自衛隊関連の施設や米軍関係施設が設けられていますが、ようく注意しないと分かりません。そして2027年までの5年間で43兆円を費やすという軍事予算がこの地でどう使われるのか、改めて「可視化」させなければと思いました。諸磯はかつて第五福竜丸乗組員だった大石又七さん(2021年逝去)が最晩年を過ごした場所。その「ベストライフ油壷」の大石さんの部屋からは、ヨットの並ぶ諸磯湾越しに富士山が見えて、大石さんは子どもの頃に見た富士山がまた見えると言っていました。まさにその建物の目の前を通って特攻基地跡を見学しました。見学会の最後に訪ねた場所は、ビキニで被ばくさせられた大石さんを見舞った場所、改めて核兵器の禁止と軍事国家化を食い止めなければと、三崎口へと走るバスの中で考えました。
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2020年3月1日に高齢者施設「ベストライフ油壷」に入居していた大石又七さんと交流したました。
Blog記事『1954年3月1日マグロ漁船第五福竜丸は、アメリカの水爆実験による死の灰によって乗組員が被爆した』

国立国際医療研究センター病院展示室より

(了)
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