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地図で見た市ヶ谷台の戦後 

2023年08月23日 外部ブログ記事
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竹内正浩著「写真と地図でめぐる軍都・東京」がある。

明治7年陸軍士官学校が設立し、昭和16年陸軍省と大本営陸軍部となった。戦後は、極東軍事裁判所法廷となった。著書には「裁判終了後、細かく区分された建物は、米軍の家族用宿舎にあてられた。パーシングハイツと名づけられた。」との記述がある。
新宿区教育委員会刊「新宿区地図集」を詳細に見たい。

昭和22年(1947)「新宿区詳細図」には「第一復員庁」が見える。多分「第二復員庁」もあったであろう。「第一」は陸軍、「第二」は海軍の復員業務を担当していた。舞鶴港等各地に復員上陸してきた将校から「戦場の闘い」と「戦死者名・戦傷死者名・戦傷死者名」の聞き取りをした情報を、東条英機の副官だった美山要蔵らが集約し、「祭神名票」を靖国神社に送り、「戦史叢書」の準備をした。

昭和28年(1953)「復興新宿区全図」には、「パーシングハイツ」並びに陸軍省敷地北側の木造庁舎と厩舎(きゆうしや)に「引揚援護復員局」、「東京復員連絡局」があったのが判る。

(了)
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