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中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証吉田義雄氏 

2023年08月18日 外部ブログ記事
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いまから18年前の2005年8月18日朝日新聞「声」欄に吉田義雄氏が投書しました。投書を読んだ管理人は、直ちに朝日新聞名古屋支局に連絡して、証言してもらいました。


中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号吉田義雄氏

陳 述 書?2006 (平成18 )年2月24 日?1 ,私は、大正13年5月11日、名古屋で生まれ、育ちました。 私は昭和14年3月、大成尋常小学校卒業を卒業と同時に、満蒙開拓青少年義勇軍に応募しました。15才の時でした。? 愛知の追伸農場(現愛知農大)で1週間の訓練が行われ、その後、4月15日茨城県にある義勇軍内原訓練所に入所しました。内原訓練所には愛知、奈良、福井、東京の4 都府県から約300名が応募してきていました。私は、内原訓練所で山崎利四郎隊長率いる第2大隊第9中隊に所属しました。ここで2ケ月間の基礎訓練を終え、東京での壮行会の後、6月15日、福井県敦賀湾から貨客船気比丸で日本海を渡り、北朝鮮の清津に寄港し、神社参拝の後船中泊し、翌日羅津に上陸しました。? その後大陸鉄道で北上し、朝鮮と満州(以下、満州とう地名は現在の中国東北部と呼ばれる地域を指します)の国境の街、図們で税関検査後、一路図佳線《図們と佳木斯(ジャムス)を結ぶ路線名》で牡丹江を通り、昭和14年6月20日タ刻、ハルピン市校外の礎にある義勇隊訓練所に到着した。ここには1年先輩の隊員がおり、9月中旬まで古びた土壁の兵舎で150名程が起居していました。? このハルピンの訓練所で3年間訓練を終了すると、甲種実業学校卒業の資格を与えられるということで、主に農耕に従事し、希望があれば日本馬、牛、乳牛、豚等の飼育、あるいは園芸に専念することもできました。? ハルピンでは種々の用務があり、畜産部では牛馬の飼育、園芸部では野菜の栽培はもとより馬鈴薯等の選別貯蔵の作業まで行い、本部では事務補助作業とあれこれ沢山の作業があった。他には中隊毎に交代で衛兵所の勤務をおこなった。? 9月中頃になって、同じ訓練所敷地内に煉瓦作りの兵舎が完成し、各々60名の小隊に編成替えとなり、1, 2小隊は社会経験をもつ16才以上の年長者、3〜5小隊は私たち15才の高小卒者で構成され、本格的な訓練に入りました。? 昭和15年5月頃から予備兵の将校が訓練所の職員として私たちの訓練にあたり、又冬季(農閉期)にはハルピン駐屯隊から軍事訓練を指導するために伍長を長とした上等兵数人が派遣されるようになり、次第次第に軍事色が暗い影を落とすようになりました。? その後昭和15年8月、ハルピン訓練所から牡丹江省寧安県東京城青年義勇隊寧安訓練所に転属となりました。? 私が配属されたのは、第2大隊第9中隊であり、中隊長は当初は、山崎利四郎氏でした。その後中隊長は、古瀬悟、木場静と交代していきました。1中隊には、薄田小隊長、大野小隊長、貝沢小隊長、遠藤小隊長、鳴海小隊長をそれぞれ隊長とした5小隊があり、私は第3小隊貝沢小隊長の部隊に所属しておりました。? 寧安訓練所は、中央に本部があり、これを取り囲む形で2〜3m置きに隊員達の宿舎がゆるやか傾斜地に点在していました。宿舎は全部で5棟あり、これに炊事場、風呂場、便所、家畜部屋等があって何れも補修はしてありましたが、荒い土壁の古い粗末な建物でした。? 昭和16年初頭、中隊から選ばれて訓練所本部の経理部備品倉庫係に配属されました。? 昭和16年7月には、隊員100名が関東軍の命令により牡丹江東寧の森の奥にある兵器廠に約1ケ月テントを張って野営した。私は兵器廠の事務職として採用され、軍曹の下で働いた。? その後、木場中隊長の部隊に帰り、昭和17年10月寧安訓練所の訓練期間も終わり、木場中隊は全員(志願兵応募者、満鉄就職者を除く)が満州最北端の三江省羅北県鳳翻村南段地区に第2次朝日義勇隊開拓団として入植しました。入植に際しては時期を異にして先発隊50名、中堅隊50名、本隊100名で合計200名が入植しました。入植地には5部落に分かれ、1部落40〜50名が入植しました。大和、敷島、草薙、春日、高千穂と当時の軍艦名を冠した部落の呼び名がつき、本部は大和部落に置かれることとなりました。中国人の畑を没収し、大麦、コーリャン、カボチャ、馬鈴薯、トウモロコシ等を栽培しました。水田を作ろうとしましたが、できませんでした。? 昭和18年の徴兵検査までは甲種と第1乙種合格者だけが兵役に服し、第2乙種以下はそのまま残って開拓の仕事に従事していました。しかし殆どの隊員が兵役に就き、隊員が不足してきたことから、その後昭和19年に補充隊員として100名が副団長の柿沼加伊三中隊長の引率で栃木から入団してきました。?2,私は昭和19年に佳木斯(ジャムス)で徴兵検査を受け、昭和20年2月ころに召集令状が届きました。そして私は昭和20 年3月15日、ハルピン南方の周家(哈爾濱と図門とを結ぶ濱図線でハルピンから2駅目)近くにある周家という地域にある関東軍独立軽重兵第57大隊へ陸軍2等兵として入営しました。大隊は6中隊で構成されていました。第1小隊、第3小隊、第5小隊の中心部隊は 作戦行動に出ていたため、第1小隊は第2小隊(広岡隊長、後に竹田隊長)に、第3小隊は第4小隊(石山隊長)に、第5小隊は第6小隊(林隊長)に合併されておりました。私は第1小隊に所属することになりましたが、本体が作戦行動に出ているため、第2部隊の隊長が直属の隊長ということになります。? 昭和20年7月に第1期の部隊長の検閲を終え担当部が決まり、私は毒ガス兵として特別講義を受けることとなりました。毒ガス兵は、6小隊からそれぞれ2名ずつ選任されていました。? ガス兵とは、種に戦場では軍の先頭にたってガスを調べることが任務となっておりました。そのため催涙ガスやくしゃみガスについての知識を教えられ、また実際に伍長から、目張りをした部屋に毒ガス兵の初年兵だけが閉じこめられ、その中で、催涙ガスを浴びることなどの実験をさせられました。? びらん性ガスについては、皮膚につくと溶けてしまう、という程度の一般的な知識を教えられただけでした。? 日本軍が当時これらの毒ガス兵器を持っているということは、この時はまだ何も知りませんでした。? これらの教育の他は、一般的な輜重として勤務したら、馬の世話をしたりしていました。?3,昭和20年8月9日の朝、私たちが馬の世話をし終わった頃、突然中隊の田端軍曹が来て、「ソ連軍が攻めてきた。えらいこった。」と告げました。その後、私の直属の班長(分隊長)である大橋班長からの命令で、直ちに輜重車(荷車のようなもの)に馬を繋ぎ、出かけることになりました。そこには初年兵約200名くらいが参加したと思います。? 軍を出るときには、どこに行くかも知らされていませんでした。結局鉄道を渡って反対側に日本軍の兵器廠があり、そこに行くことになったのでした。私たちはそこに着くまで、線路を隔てた反対側の自分たちの直ぐ近くに兵器廠があることは全く知りませんでした。そこには100メートル間隔でいくつもの倉庫があり、中に砲弾が置かれていました。倉庫の広さは15畳くらいだったと思います。? 班長から私たちに、ソ連軍に見つかったらいけないので、倉庫内の砲弾を井戸へ捨てろといわれました。私はそれまで日本軍の毒ガス砲弾を見たことはありませんでしたが、ソ連軍に見つかったらいけない、といっていることからこれらの砲弾が毒ガス弾であると思いました。また、兵隊の間に自然と噂のようにこれらの砲弾は毒ガス弾だという話がなされていました。? 私たちが倉庫にいった時は、すでに倉庫の扉は開いていました。たぶん兵器廠の兵士が開けたのだと思います。? 砲弾は木箱に入れられており、倉庫から馬車に4箱くらい載せて井戸の近くまで行き、井戸の近くで木箱を割って中から砲弾を取りだし、井戸に捨てました。?これらの砲弾は、一つの木箱に2 個ずつ入れられていました。砲弾の特徴としては、黄色の帯が付いていました。? 作業は、毎日9時から11時30分まで、そして一旦部隊に帰って、再び1時から3時30分ころまで作業をしていました。私が知っているのは自分が行った作業のことだけであり、他の兵隊や兵器廠の兵士達がどのように砲弾を捨てていたかは、私は知りません。来る日も来る日も終日この作業で、しかも急を要する作業だけに埋め戻しの暇もない有様で、全員疲れ果てていました。これらの作業をしていたところ、8月11日頃、兵器廠の引き込み線に国境方面から逃れてきたという将校や軍属の家族たちを乗せた有蓋貨車が10両ほど入線してきました。? 8月15日午後1時過ぎころ大隊本部から馬に乗った見習士官が砲弾を捨てている作業場所に駆けつけ、本日天皇陛下から終戦の詔勅が換発されたので、全員直ちに大隊に帰営せよ、と大声で命令を伝えました。そこで、私たちは作業をそのままにし、全員直ちに大隊に戻りました。? それまでに私たちが担当していた倉庫は約10棟近くに及び、それらの砲弾を井戸に捨てたのでした。? その後、私たちは大隊に戻って通常の業務を行っていました。そして、8月19日、ソ連兵10名ほどがトラック1台で大隊に乗り付け、我々全員を中庭に集めて、腰の剣以外の銃器を全て提出させて武装解除となりました。? 我々は、背負袋に着替えの下着類、軍足には詰められるだけの米を詰め、砂糖、乾パン等を持てるだけ持って中庭に集合し出発に備えました。? そして2日2晩不眠不休で行軍し、3日目のタ刻にやっと阿城駅に着いたのでした。? その後シベリアのモシカ801収容所で収容生活を送り、その後ハバロフスク北方数百キロのコムソモルスク近くの409収容所に転属となり、昭和23年1 1 月帰国した。 以 上?

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哈爾浜市周家の遺棄毒ガス現場へ吉田義雄氏と同行しましたので、後日同行記をエントリーします。
「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証甲斐文雄氏
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第260号証興梠治照氏
(続く)

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