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葵から菊へ

中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏 

2023年08月15日 外部ブログ記事
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本日は、78年目の「敗戦記念日」です。武道館では政府主催全国戦没者追悼式典が開かれ、天皇徳仁から「お言葉」と岸田文雄総理大臣から「式辞」が述べられることでしょう。正午の時報に合わせ司会者から「黙祷」が発せられ、NHK実況放送が靖国神社のスピーカーから流れ、拝殿の前や境内の参列者も一斉に黙祷を捧げます。
2010年8月15日靖国神社拝殿前にて

2019年8月15日靖国神社・遊就館二階ホールにて

78年前8月9日のソ連軍参戦と15日の「玉音放送」によって、中国大陸では国際法違反の旧日本軍毒ガス砲弾の遺棄が軍命によって行われました。東京地裁、東京高裁に提出された兵士の陳述書をこのblog「葵から菊へ」にエントリーし、「平和の遺言」として歴史に残したいと思います。
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「中国人遺棄毒ガス被害者国家賠償請求裁判」で、敗戦後中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の証言を原告側が東京地方裁判所に提出してきた。東京地方裁判所も東京高等裁判所も、毒ガス弾を遺棄した「事実認定」だけはしたが、毒ガス被害に遭った場所に遺棄した兵士の証言でなければダメだった。判決は一回だけ東京地裁で勝訴したが、後は全て東京地裁、東京高裁、最高裁では敗訴した。東京地方裁判所に、7人の毒ガス砲弾を、遺棄した事実を勇気を持って証言した兵士の「陳述書」を順次エントリーしたい。

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鈴木智博氏が、敗戦時にいた江南省湘漂県滴水埠

鈴木智博氏は、1995年9月に開催された「新宿毒ガス展」を見てから毒ガス弁護団に連絡をされた。

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甲第121号証? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 陳 述 書? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?          鈴 木 智 博1 敗戦時までの軍隊経歴 私は、1940年1月10日に入隊し、苦しく厳しい教育を受け、1941年11月1日任官しました。任官と同時に教官の下で助教として兵の教育を担当しました。 そして、1943年2月に船で中国の上海に入り、3月には湖北省荊門県沙洋鎮に到着しました。私の所属した部隊は、支那派遣軍第6方面軍第11軍、別名「呂集団」の直轄の自動車第34連隊です。自動車連隊は輸送業務を担当するのですが、そこで私は人事係という思いもよらない上級職に就きました。人事係は、部下が3人いて、兵士の入隊日や移動場所を記した戦時名簿や、功績名簿、編成表を作成するのが主な仕事でした。その後私の所属した自動車第34連隊は以下の作戦に主に輸送業務で参加しました。(私はすべての作戦に参加したわけではありません)? ? ? ? ・1943(S18)年4月1日〜6月31日 江南繊滅作戦? ? ? ? ・1943(S18)年10月31日〜12月31日 常徳繊滅作戦? ? ? ? ? (第1中隊及び3中隊の第3小隊が参加)? ? ? ? ・1944(S19)年5月26日〜12月29日 湘桂作戦? ? ? ? ? (1944/12/30〜1945/2/28南部身漢打通作戦)? ? ? ? ・1945(S20)年3月1日〜6月10日 湘西作戦? ? ? ? ・1945(S20)年6月11日〜8月14日 長沙〜衡陽間の水路輸送 その間、自動車第34連隊は駐屯地を、湖北省荊門県沙洋鎮から1944年には江西省尋陽県九江南昌、岳州、長沙、衡陽、来陽、1945年には、田家林山、衡陽、と移動し、敗戦時には、湘漂県滴水埠にいました。2.敗戦時の様子 昭和20年6月初旬連隊は、本土決戦に備え上海集結を命ぜられました。 上海集結のために衡陽の兵器弾薬を長沙に集積するよう命ぜられた連隊は、衡陽に位置して水路を利用して輸送業務を行いました。この時すでにガソリンが欠乏してお り自動車による輸送は不可能で船舶を徴発して水路輸送を行いました。 連隊の主力は衡陽に位置して水路輸送を行いました。先発隊を命ぜられた第4中隊は車両と兵員の大部分は水路輸送に従事しました。 私は第3中隊の自動車約60両、兵員約80名を指揮していました。九江迄のガソリンを支給され、九江に向け出発命令を待って滴水埠に駐留待機していました。 8月14日に、憲兵隊が通信隊の無線を接収したとの情報があり、滴水埠の町へ買い出しに行っていた兵士が帰って来たところ、その兵士から町では日本が降伏したと号外が出されており大騒ぎをしていると報告がありました。しかし正規の命令情報は どこからもありませんでした。 さらにそれまでは夜明けと共に米軍のP51戦闘機が偵察飛行の後3、4機編隊のP51戦闘機が湘江両岸を無差別爆撃と機銃掃射を、毎日定期的に来襲して攻撃してきていたのですが、8月15日になるとぴたりと攻撃を停止しました。緊張感が切れる事は安心感以上に不安がありましたが、正規の命令情報が何処からもない以上課せられた任務を忠実に遂行する以外にはありませんでした。 8月20日になって初めて地区司令部の命令を受けて命令を実行しました。3. 1945年8月20日の命令 1945年8月20日の朝、湘漂の地区司令部から第4中隊長に「地区司令官の指揮下 に入りその命令を受けよ」という達示がありました。地区司令部とは、担当地域にい る部隊を指揮するところですが、第3,第4中隊は独立していた部隊なので普段は地 区司令部の指揮下ではありません。? その命令を第4中隊から私に伝えられました。私は、すぐに庶務係下士官の臼倉伍 長に湘漂地区司令部へ命令受領に行かせました。命令は口頭で与えられ、それを臼倉 伍長が筆記し復唱し確認してきたメモをもらいました。? 命令の内容は以下の通りです。? ? ? ? 1、連合軍との間に停戦協定が成立した。? ? ? ? 2、各部隊は現在の占領地域を確保せよ。? ? ? ? 3、陣中日誌、戦闘詳報、戦時名簿、功績名簿、その他部隊の行動を記録した、一切の書類を直ちに焼却せよ。? ? ? ? 4、部隊が保有する化学兵器、ガス弾等は本日中に隠密理に処理せよ。? ? ? ? この命令は軍命である、万遺漏無く確実に実行せよ。? この命令は厳命でした。 「停戦協定」とは相互対等です。巷に流れていた「日本降伏」の噂が一応否定され ましたが、諸情報を総合した判断による疑問が解消されたわけではありません。命令 の内容に不審を抱きましたが、軍命であり命令に従わざるを得ませんでした。4 1945年8月20日の命令実行 命令を受け8月20日の昼には命令実行に取りかかりました。 まず、私は、庶務係下士官臼倉伍長に「書類を全部出せ」と命令しました。そして、 私の立ち会いのもと、兵士に功績書類、戦時名簿、陣中日誌戦闘詳報など、機密書類 を一切焼却させました。 そして、ガス弾については、兵器係下士官の桜井伍長を呼んで、ガス弾を持ってい るかどうか確認したところ、持っているという返事だったのでガス弾の種類、数量を調査報告させ、処分方法、処分場所を決定させました。桜井伍長は昼間のうちに投棄場所を偵察し決定しましたが、投棄は夜まで待ちました。5 毒ガス弾を捨てたときの状況 私は「責任は全て私が持つ」と言って、ガス弾処分の指揮は自らとりました。車両にガス弾が入った箱を乗せさせました。ガス弾が入った箱には、中隊の名前と「 黄」 や「緑」という文字が書かれていました。色がついているのでガス弾の箱だとすぐに わかります。箱の大きさは幅20cm、長さ30cm位で、ガス弾の迫撃砲が2本入ります。その箱が確か20箱くらいありました。(地図A参照)
 第3中隊は、長沙〜衡陽を走る道路から約50m入った民家に駐屯していました。 そこは、滴水埠という町から1-2 km離れているところです。夜7時か8時くらいにガス弾を乗せた1台の車両に私と桜井伍長、5'-6人の兵士を乗せ出発しました。 500m位衡陽方面に走ったところで、道幅約3mの農道のような細い道を右に折れ緩 やかな坂道を下り湘江のほとりにでました。そこは昼間、桜井伍長が偵察した場所で す。湘江は幅200m~ 300m位の川でした。 近くの民家のものであろう、泊めてあった7〜8人乗れる小舟に、私と桜井伍長ともう1人の兵士が乗り込み、ガス弾の箱半分を積み、川の中央に舟を進めようとしました。竿は1本しかなく、私が竿を操っていました。しかし、 1本の竿ではなかなか前に進めません。舟は竿を中心にくるくると回るばかりで前には進みませんでした。苦心の末、何とか岸から 20mほど離れましたが、その先は流れが早くとても前に進むことはできませんでした。舟が流されるのを防ぐのが精一杯になり、深さ2m位しかありませんでしたが、やむを得ずそこに投棄しました。それを2回行い、ガス弾を全て処理しました。
6 毒ガス処理から復員まで? その後、命令に従い、1945年9月2日午前滴水埠を出発して、午後2時頃長沙に到着して本隊に合流しました。武装解除は1945年9月20日長沙郊外の丘陵地帯で、 中国軍監視の中で行われました。見渡す限りの丘陵に戦車、重砲、野砲、自動車、諸々の兵器弾薬が整然と並び、軍刀と拳銃を前に並べ、退場する時に初めて我れ敗れたりと自覚しました。死んだ子の年を数える類いになりますが、何故武装解除の際、ガ ス弾を引き渡せなかったのか、軍首脳の責任回避であるとすれば残念です。 この武装解除によって私たちは中国軍の捕虜になりました。捕虜収容地は中華民国湖南省長沙県橋頭駅長衡岳地区霞疑郷というところです。割り当てられた中国人の民家に1946年4月までいました。 そしてやっとの思いで1946年5月に上海に移りました。日本まではあともう少しなのですが、復員するためには戦時名簿や功績名簿がなければ乗船できない、とのことでした。しかし、戦時名簿や功績名簿は8月20日の命令によって全て焼却してしまっています。私はあわてて部下に手伝わせ戦時名簿を記憶に頼って作成しました。名簿の確認作業をしたところ、私の記憶に全く間違いがありませんでした。そして、とうとう7月2日に乗船でき、4日に仙崎に復員を果たしました。仙崎についてからも、功績名簿と叙勲申請書類の作成をし、佐世保復員事務所に書類を提出し、6 日に懐かしい故郷へ帰ることができました。
7.毒ガス遺棄を証言しようとした理由 戦後の混乱の中で、必死に生き抜いてきたものの、私が遺棄した毒ガス弾がその後 どうなったかという不安が消えませんでした。50数年間心の隅にずっと残っていました。 しかし、暮らしが落ち着いてきて、懐かしい元兵士の方々と会うようになっても、 思い出話はするものの、毒ガスについては表沙汰になるとお互い嫌な思いをするので話しませんでした。私も、口にすると外交問題になるのではないかと思い、黙ってい ました。 しかし、毒ガス弾は回収されない限り未解決の問題です。 私は記録したり文章を書いたりするのがとても好きなので、復員してから断片的にではありますが、軍隊で体験したことなどを記録しておきました。毒ガス処理の命令 内容なども復員してすぐに記録しておきました。個人史を戦後50年を機にまとめて、 その中に「誰かにみつけてほしい」との思いで毒ガス弾処理のことを記入しました。 そして、1995年9月に新宿で行っていた毒ガス展に行き、ついに自分の経験を主催者に話しました。 自分勝手ではありますが、せめて自分が遺棄した毒ガス弾だけでも回収できないか と、中国大使館に行ったりもしました。8 最後に 日本軍が毒ガスを使用していたことは、戦後の資料をみても明かです。中国で私自 身は輸送業務を担当していたので実際に毒ガスを使用した戦闘に参加したことはあり ませんが、常徳作戦で毒ガスを使用したという噂は戦闘を離れている私達の間にも当時からありました。日本軍が毒ガスを持っていると言うことは、周知の事実だったと 思います。? そして、当時の日本兵は、毒ガス兵器の使用が国際法違反だということはみんな承知していました。常識でした。1945年8月20日の毒ガス処理の命令に「 隠密理に」 という言葉が使われているのが、その証拠です。 敗戦時に、中国にいた全ての軍隊が毒ガス弾を遺棄したかどうかはわかりませんが、 私の隊と一緒に駐屯していた第4中隊も湘江に毒ガス弾を遺棄したと言っていまし た。また、毒ガスに関わる命令は地区司令部が出すわけはなく、おそらく中支那派遣 軍総司令部が出したであろうし、中支那派遣軍総司令部が出した命令はおそらく参謀本部が出していると思われます。 軍の行動はすべて命令によって実行されます。軍規なくして軍の存在はありません。 発せられた命令が伝達されない場合処罰されますので、命令は必ず末端に伝達されま す。そのことから考えても、敗戦時、おそらく中国全土で毒ガス兵器を遺棄したであ ろうと推測されます。
 毒ガス弾を遺棄したことは、命令に従っただけですから、私は日本に対して責任はないと思っています。しかし、中国人に対しては責任があると思っています。私が捨てた毒ガス弾で被害がでたら悔やんでも悔やみきれません。私が捨てた場所は橋も川も変わってしまって場所もわかりません。個人ではどうしようもできないのです。これは日本全体の問題だと思います。平成13年7月23日

傍線は管理人
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「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」
(続く)
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