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痩田肥利太衛門残日録その二

武士道精神の原点「北条時頼の撫民思想」と騎士道精神「ノブレス・オブリージュ」 

2023年07月15日 外部ブログ記事
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鎌倉時代の年表

【一神教のキリスト教国西洋が持つ異教徒に対する優越感】
1868年(明治元年)、国際舞台にデビューし、近代化に梶を切り替えた日本の明治時代前半は世界に追いつけ追い越せと、莫大な費用をかけ招聘した外国人教授・専門家の「お雇い外国人」から必死になって政治・産業・科学技術・教育・文学・芸術などすべての分野について学んでいました。
(お雇い外国人の招聘を終了した明治28年(1895)を境に明治時代を概略前半と後半に分けた。)
1.明治時代前半28年間:明治元年(1868)〜明治28年(1895)
2.明治時代後半17年間:明治29年(1896)〜明治45年(1912)
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確かに当時の日本は西洋より国力や科学技術では劣っていましたが一般国民の識字率はむしろ西洋人より高く、考え方や道徳感は同等かそれ以上の素質を持っていたと思います。
しかし、西洋人は人生・生活の指標・教養・道徳それらを土台とした価値観は聖書だけにあり、それを信じるキリスト教国以外の異教徒の国民は西洋人の価値観や教養や道徳心を持っていないとみなされていたようです。
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何しろ、当時は極東の地日本に関する情報伝達は遅く、西洋の多くの図書館には改訂後の百科事典の配置が遅れていたため、日本の項には「専制君主「徳川将軍」が支配する鎖国の独裁国家である。」と旧記述のままになっており、一般西洋人は「侍が支配する国、国民は粗暴、無教養、道徳心が薄い」ということが日本のイメージだったといいます。
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その日本のイメージを払拭し、国際的地位向上につながったのが以下の事件でした。

明治27年(1893):日清戦争の勝利
明治28年(1894):内村鑑三著書の英訳本「日本および日本人」による世界への発信

鑑三は既に身についていた仏教思想を基礎に東洋的キリスト教思想を提唱した。

明治32年(1899):新渡戸稲造著書の英訳本「武士道」による世界への発信

新渡戸は留学先で度々日本に道徳心はあるのかと問われ武士道の出版に至った。

明治37年(1904):日露戦争の勝利

(*2)内村鑑三[1861(万延2)-1930(昭和5)と新渡戸稲造[1862(文久2)-1933(昭和8)]はお雇い外国人であるクラークの影響を受けて札幌農学校時代の同じ年の1878(明治11)年にキリスト教に入信した。
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専制君主が支配する劣等国と思われていた日本が国際舞台に姿を見せて間もないのに、いつの間にか先進国のハードウエアとソフトウエアを学習、使いこなし、ギリシャや東欧などが属する東方正教会のキリスト教国で大国ロシアに勝利したことに西洋の人々は驚愕したと言います。
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【武士や民衆に広がった改革奈良仏教と鎌倉新仏教】
安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震など、特に、平安末期から鎌倉末期にかけて大火事、大風水害、戦乱、旱魃、飢餓、大地震を記録する資料や歴史書が残っています。
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頻繁に起こる自然災害や戦乱に民衆が苦しみ、絶望し、救いを求め、すがったのが仏教でした。それに答えるかのように、浄土宗や浄土真宗や曹洞宗などの鎌倉新仏教と奈良・平安時代から続く、法相宗や華厳宗や律宗など旧仏教の奈良改革仏教が次々と興りました。
民衆だけでなく戦いに明け暮れる武士にも絶望感や無力感やはかなさなどの気持ちが湧き出て、無常や運命そして極楽浄土という日本独特の思想が生まれました。
この時代に作られた平家物語、方丈記、徒然草に無常感や運命感が表現されています。
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【武士道の原点】
仏教伝来から500年以上経た平安時代末期になると朝廷や公家の政治がほころびはじめ、力をつけてきた地方の在住の領主や武士が政権を取って代ろうとしました。
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1167年平清盛が武士として初めて公家から政権を奪い、1192年源頼朝が政治の中心を京都から鎌倉に写し、武家政権を確立しました。
鎌倉時代初期、武士が統治者になって初めて国を統治する能力の未熟さに気が付き始めました。武士は収奪者ではなく民百姓を育て収穫を増加させる支援者として武士が質的に変化しなければならないという考えが現れ始めます。(追記2)
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鎌倉時代初期の幕府の財政基盤は関東の幕府の所領のほか、平家を倒して没収した全国500カ所の所領だけでしたが鎌倉時代中期の1203年に鎌倉幕府の執権を掌握した北条家の初代執権の北条時政は1221年後鳥羽上皇が起こした承久の乱を制圧、東国と西国に所在するそれぞれ1500カ所の合計3000カ所にある公家や皇族さらに京側に味方した武士の所領を没収したことにより、幕府の財政は一挙に増加し、政権は盤石なものとなりました。
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これら所領を承久の乱の恩賞として御家人に与えた結果、西国にも所領を持つ東国御家人が大量に増えました。
しかし、自分のまわりの所領だけから年貢を取り立てれば事足りた東国武士は幕府の年貢取り立てシステムの国司として西国を統治するとなると統治方法や法令を読み書き・理解し実施する必要になり、戸惑い混乱しました。
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国司を務める上級の東国武士でさえ、学識・教養が低く、直接、民百姓と接せる中級・下級レベルの武士たちは読み書きできるものは少なく、民百姓を束ねる庄屋・名主の方がはるかに学識・教養が高かったといいます。
公家は国司に所領の管理を任せていたので民百姓がどうなろうとまったく関心がありませんでした。しかし、500年以上にわたって築き上げてきた公家による統治システムや方法は高く評価されるものでした。
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第3代執権の北条泰時は貞永元年(1232)民百姓から年貢が公家時代と同様に集められるように武士の行動規範を示した法令「御成敗式目(貞永式目)」を制定します。
「御成敗式目」は京都の朝廷が定めた「公家法」を否定するものではなく、幕府組織の武士・御家人に適用する法律であることを明確にし、殺人が巧みな職人でなく、武士のあり方を見直し、「民百姓をいつくしむ撫民(ぶみん)思想を根底において統治する」というこれまでにない画期的な法律でした。(追記5)
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それから15年後の宝治元年(1247)第5代執権北条時頼は宝治合戦にて三浦一族を滅ぼし幕府政権をさらに強固にしていきます。
このころ(鎌倉時代中期)になると政権も生活も安定してきてかつて東国武士のイメージが粗野で乱暴から質素倹約・清廉と変わってきました。
徒然草に時頼の母の松下禅尼は破れた障子を繕うことで時頼に倹約の精神を教えたというエピソードがあります。(追記5)
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「御成敗式目」が施行されましたが依然として武士たちによる農民からの行き過ぎた搾取がみられました。時頼は武士の統制を強めますが武力で押さえつけるには限界がありました。
そこで時頼は武士たちを本質から変える政策を打ち出します。
建長5年(1235)御成敗式目の追加法「撫民(ぶみん)令」を発令、さらに「撫民に関する具体的な法令」たとえば「土民百姓を苦しめる守護や地頭の苛政を取り締まる法令など次々と出していきました。
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建長5年(1235)の時頼の撫民政策の一つとして武士の質を変えるため鎌倉に建長寺を建立禅宗の僧侶のもとに武士たちに禅の修行をさせたのです。
さらに円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺など鎌倉五山を建立し禅宗による精神修養で自制できない粗暴・収奪者から自己規制の心を育み民衆の利益を優先する統治者と変えていきました。
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この撫民政策の精神修養は武士道の原型となったのです。
西洋にはキリスト教由来の騎士道精神に「ノブレス・オブリージュ(高き身分にともなう義務)」がありますが我が日本にもやがて騎士道精神同じ「戦う勇敢さと強さだけでなく、統治者として弱者を慈しむ心を持つ」という武士道精神が出来上がっていくことになりました。
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【追記】
1.日本仏教
この日本仏教の思想は奈良仏教の改革仏教の貞慶(法相宗)、高弁(明恵の華厳宗)、忍性(律宗)、鎌倉新仏教の法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、親鸞(浄土真宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、一遍(時宗)に流れる基本的思想の一つと思われます。
仏教は日本に伝来してから皇族や貴族は熱心に受け入れ、民衆も生活に大きな位置を占めるようになりましたが既に朝廷や民衆には日本古来から神々を信仰し、尊重する社会や生活基盤ありましたのでただ一つの神しか認めないキリスト教と違い、仏教では神道の神を尊重し、神道を仏教の神である仏や菩薩と習合したハイブリッド型の日本仏教をつくることに成功したと思われます。
2.鎌倉時代の武士
平安時代末期から鎌倉時代初期、武士は白拍子と博打打ちと同様に職人として分類されていました。(中沢新一「武士と浄土宗」(日本古典文学全集平家物語?の解説)
平家物語が書かれた頃の武士(さむらい)は殺人が巧みな職人とみなされており、性格は残虐であり、武力で土地を守り、他者と問題が生じた場合、武力で解決するというのが武士の常套手段でした。
朝廷や貴族の警護や荘園の管理を託されていた武芸職人集団である源氏一門や平氏一門は公家からは地下人と見下されていました。
3.公家と統治システム
公家は幼いころから和歌や漢文や仏教・故事などを学び学識・教養を身につけていました。成人になると朝廷でそれぞれの分野の役職に就き、有職故実や法令などを学習・実践しながら政務をこなすほか歌会など宴会・芸能・学識の会合を行っていました。
西国を統治していた公家は所領の管理を西国武士の国司にまかせ、そこに住む民百姓にはまったく関心がありませんでした。
しかし、500年にわたって築き上げてきた公家による統治システムや統治の方法は高く評価されるものでした。
4.禅宗
坐禅修行を主とする臨済宗、曹洞宗などの仏教宗派が「禅宗」と総称される。
5.撫民思想
北条泰時、時頼の撫民思想は孟子のことばに基づいている。
孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いている。(徒然草 第142段 心なしと見ゆる者も、第184段 相模守時頼の母は)
【参考】
1.「新編日本古典文学全集46 平家物語2」、校注・訳 市古貞治、小学館、1994.8.20
2.「新編日本古典文学全集44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄」、校注・訳 神田 秀夫、永積 安明、安良岡康作、小学館、1995.3.10
3.「さかのぼり日本史G室町・鎌倉“武士の世”の幕開け」、本郷 和人、NHK出版、2012.3.25
4.「原勝郎博士の日本通史」、原 勝郎(著)、中山 理(訳)、渡辺 昇一(監修)、祥伝社、2014.4.5
5.「日本文学の歴史5 古代中世篇」、ドナルド・キーン、土屋政雄 訳、中央公論社、1995
6.「日本史年表・地図」、児玉 幸多、吉川弘文館、2013.4.1
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