メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

雑感日記

カワサキ単車の昔話   1 

2023年06月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★今年2023年はカワサキの単車事業スタートから70周年だそうである。 先日、カワサキの国内販売会社・KMJのOB会の慶睦会に出席して初めて知った。 KMJでは70周年を記念してこんな立派な記念のグラスを創っていて、 お土産に頂いてきたのである。    ところで70年前の1953年と言えば昭和28年と言うことになる。 私自身は当時の川崎航空機工業に昭和32年4月に入社しているので、 其れよりも5年も旧い話なのだが、 当時から明石に住んでいたし、川崎航空機とは何となく繋がっていて、 当時副社長ををされていた砂野仁さんは伯父の友人で、私は子どもの頃から知っていて、 戦後、朝鮮から引き揚げてきたときは中学1年生だったのだが、 砂野さんの勧めで神戸一中に入学したのである。 そして川崎航空機に入社したのも砂野仁さんのコネだったのである。 そんなこともあって、カワサキの単車の歴史についても、 今となっては語ることが出来るホントに数少ない一人になってしまったので、 この70周年を記念に「カワサキ単車の昔話」として 戦前のことも含めて、戦後の事業再開などいろいろ纏めてみたいと思っている。★ 川崎航空機工業と関係が出来たのは実は戦時中のことなのである。 私はまだその頃は朝鮮京城(今のソウル)にいたのだが、 夏冬の休みには故郷明石に帰郷していて 当時、伯父は明石の中崎海岸に錦江ホテルと言うホテルも経営していた。 伯父の本職は当時の南朝鮮の電力会社・南鮮合同電気のオーナ副社長だったのだが、明石ではホテルなどもやっていたのである。    この錦江ホテルが戦時中に川崎航空機に来ていた軍人の宿舎として接収されて、 当時の川崎航空機の総務部長であった砂野仁さんとの関係ができたのである。★前述したように私は昭和32年の入社なのだが、 戦後川崎航空機工業は軍事産業であったことから、戦後の中断があって、 高槻や播州などに疎開工場など持っていて、川崎機械産業としてやっていたのだが、 朝鮮動乱が始まったのを機会に、昭和28年に明石と岐阜でそれぞれ川崎航空機工業は復活したのである。 その後、発動機では単車エンジンの開発・生産を始め、 カワサキ明発に販売していたので、 私が入社した1957年当時は、発動機の営業の中に単車エンジンの販売担当者が一人だけいたという状況だったのである。   その後、いろいろあったが、 川崎航空機は単車事業をスタートさせる決断をして、 明石工場の中に単車製造一貫工場を創って、 単車事業をスタートしたのが昭和35年(1960)のことなのである。 こんな当時の写真もあるが、 当時、生産していたのはカワサキ125B7でこんなバイクだった。  当時はこのほかにもモペットM5だとか、 井関からの依頼を受けて「井関のモペット」の生産を開始したのである。 この時点ではまだ発動機営業の中で担当者一人での営業だった。★昭和36年(1961)12月15日付で、発動機営業部の中に初めて「単車営業課」が出来て、私はその時点で、単車営業課に移動した。 これがカワサキの単車事業のスタートだとしたら、 私はカワサキの単車事業の最初から単車を担当し、 その後約40年間、1999年に退社するまで、 一貫して単車事業とともに歩いたということになったのである。 今となっては1999年も20年以上も昔のことなので、 そん40年間の「カワサキ単車の昔話」を纏めてみようかなと思ったのである。 ★まずは、初めて出来たカワサキの単車営業課だが、 私はまだ係長にもなっていない入社4年目の新人で、 課長も部長もいるにはいたが、単車については私と同じ初めての経験で、 ホントに何のノウハウもない白紙の中からのスタートだったのである。 「単車営業課」と言う名前ではあるが、 当時の技術開発部門・製造部門はそれなりの陣容もあったのだが、 この「単車営業課」はほんの7人ほどの陣容で、 今でいうなら、企画・広告・営業など事務屋のやることは一切担当だったし、 サービスと称していたが、品証部門もその中にいて、 私は新人ながら、掛長心得のような役割だったのである。 当時のバイクの写真だが、 当時の「カワサキ自動車販売の広告宣伝課」が撮ったものだと思う。    当時は東京の神田岩本町に「カワサキ自動車販売の本社」があって、 そこから全国の自前の代理店を通しての販売をしていて、 単車営業課はこの「カワサキ自販」に二輪車を卸すのが主たる業務だったのである。 この「カワサキ自販」は川崎航空機がカワサキ明発に出資して造った販社で、 社長は川崎航空機の土崎専務が兼務されていて、川崎航空機の明石工場よりも「格上」だったので、 今と違って工場サイドの開発・生産部門などは、「営業連絡会議」では怒られてばかりだったのである。 そんな生い立ちの経緯から、国内の販社のKMJは、世界の販売会社とはちょっと違った扱いで、 その社長はずっと事業本部長が兼務するという時代が続いたのである。 そんな国内販社に私は3回も出向しているので、 国内市場のことは結構詳しいし、 明石の事業部が新事業など起こす時は、事業部に戻っていて、 そんなことで40年間、カワサキの単車事業とともに歩いたということになるのである。 では、またいろいろと・・・・  ★50万人フォロワーのいるツイッターです。?★雑感日記のEnglish Version です。★NPO ?The Good Times のホ―ムページです。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ