メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

葵から菊へ

5月9日「独ソ戦勝利記念日」 

2023年05月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ロシアはでは9日、ウクライナ侵攻開始から2回目の対独戦勝記念日を迎えた。プーチン大統領は、モスクワ中心部の赤の広場であった軍事パレードで演説し「われの父、祖父、祖祖父は計り知れない勇気と多大な犠牲によって、人類をナチズムから救った」(朝日新聞)
しんぶん赤旗は、何故か時事配信のベタ記事だった。赤旗編集局読者室に電話して「広島・長崎への原爆投下よりも、対独戦勝後三カ月8月9日のソ連参戦によって、無条件降伏のポツダム宣言を受諾した。だから朝日新聞は、一面トップ記事にした。」と意見を述べた。

ポリス・スラヴィンスキー著「日ソ戦争への道」から抜粋
欧州の第二戦線」と「ソ連の対日参戦」の関係(略) ソ連は、既に三年間、対独戦の主要な重荷を背負い(独ソ戦戦にはヒトラー軍の八割が集中していた)、疲弊を極めていた。こうした状況の中で第二戦線の開設が延期されることは、ソ連国民にとっては信じがたい重荷となった。ソ連国民はますます犠牲を払わねばならなかった。 そこでスターリンは、難局を乗り越えるために、一九四三年一〇月三〇日、ソ連、米国、英国の外相会議で初めて、ドイツが撃滅されたあかつきにソ連は対日参戦すると言明したのである。(略)
ソ連政府に対する連合国の圧力(略) スターリンとチャーチルの交渉には、米国の利益を代表するハリマンとディーンが同席した。最初の会議で連合国は軍事計画についての情報を交換した。ディーンは、日本本土上陸を含む太平洋における米国の軍事作戦計画について説明し、「包括的な戦略において最も重要な要素になるのは、ソ連の果たす役割です」と述べた。ディーンは、南、西、東で日本を壊滅させるさまざまな計画を検討する際に、「こうした計画は、北からの対日作戦計画と調整して初めて最も効果を発揮するでしょう」と強調した このなかで注目すべき出来事になったのは、一〇月一六日のスターリンとハリマンおよびディーンとの会談である。この会談でソ連側は、ソ連の対日参戦義務を確認し、ドイツが降伏してから約三カ月後に参戦すると述べた。このとき、極東のソ連軍兵力は、ソ連が参戦するまでに、三〇個師団から六〇個師団に増強されることに決まった。?スターリンは、文書の形でこれについての協定を締結したいという申し出を断った。そして、この件を秘密にしなくてはならないのは、ソ連の準備が整うまでに日本が攻撃する可能性があるからだと説明した。? ソ連参謀本部の計算によると、ソ連軍を欧州から極東に移動させるには三カ月の期間が必要であった。米国からの援助があることを条件としても、将来の戦場に二、三カ月分の燃料、食糧、輸送手段を備蓄するには、それくらいの期間はかかった。ソ連極東の港にこれらの装備を輸送することによって、軍の再編成は著しく容易になり、国の中央から、通過能力が限定されているシベリア鉄道を経由して輸送する時間と数量は減少する。米国側は、に同意し、供給の一部を負担することにした。??ディーン将軍が書いているように、この会談でスターリンはハリマンに、タイプライターで打った七ページの商品と物資のリストを手渡した。これらの商品と物資は極東のソ連軍に二ヵ月間補給するのに必要なものであった。そこには食糧、燃料、輸送手段、その他の物資が含まれ、一五〇万人の軍の消費に充てられることになっていた。そのなかには、戦車三〇〇〇両、自動車七万五〇〇〇台、飛行機五〇〇〇機が含まれ、ドライカーゴにして八六万四〇〇トン、液体貨物にして二〇万六〇〇〇トンとなった。これらのすべてを一九四五年六月三〇日までに輸送する必要があった。?交渉が進むなかでスターリンは、ソ連軍による関東軍包囲・繊滅計画を米国側に示した。これについてハリマンはルーズヴェルトに、こう報告している。「われわれは、太平洋戦争に参加するばかりでなく、全力を挙げて参戦するというスターリンの完全な同意を得ました。 彼は、われわれを支援し、戦争をできるだけ早く終わらせたいという決意を熱心に語りました」? 米国側のイニシアチプにより、一九四四年一二月一四日のスターリン・ハリマン会談では、ソ連の対日参戦の政治的条件が検討された。スターリンは、ソ連は南サハリンを受け取りたい、即ち、ポーツマス条約によって日本に引き渡されたものを返還してもらいたいと述べた。千島列島をもらいたいとも話した。さらにスターリンは次のように述べた。テヘランでルーズヴェルト大統領は、自ら率先して、極東の温かい海への出口をソ連に提供すると提案した。そのとき大統領は、以前、ロシアが租借していた旅順と大連について語った。ソ連は、租借によりこれらの港の権利を回復し、ウラジオストクとの交通路を短縮する。奉天、長春、ハルビンを経て旅順、大連に通じる東支鉄道の権利を再び獲得したい。この場合、中国は、これらの鉄道が通る地域の主権を完全に保持する。さらにソ連政府は、外モンゴルの現状が完全に保持されることを希望する。? ハリマンは回想録のなかで、こう書いている。「私は、直ちにスターリンの提案をルーズヴェルト大統領に知らせた。スターリンの提案はヤルタでの討論を行う基礎となった」 米国の歴史学者L・ローズによれば、ルーズヴェルトは『スターリンのアジア的な要求』を知って、その慎ましさに驚いた。なぜならスターリンの要求は、日露戦争のときに日本がロシアから奪った領土権の回復を求めたにすぎなかったからである。?(傍線は管理人)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

江口圭一著「十五年戦争」から抜粋
独ソ戦と関特演? パルバロッサ作戦命令にもとづくドイツの対ソ攻撃は、当初の予定から若干遅れたが、四一年六月二二日に決行された。ドイツ軍の奇襲攻撃は完全に成功し、ソ連軍は総崩れとなり、七月四日ヒトラーは勝利演説をおこなった。? 独ソ戦争は日本にとっても予想外の不意打ちであり、第二次近衛内閣の対外政策を根底から覆すものであった。ドイツが独ソ不可侵条約を破って対ソ戦争を遂行したことは、日本が日独伊三国同盟の側に引き込もうとしたソ連を、逆に三国同盟の敵側すなわち英米陣営の側へ追いやることにほかならなかった。日本は四国協商的構想を完全に崩壊させられたうえ、最悪の場合には米ソ両国を相手に戦争しなければならないという重大事態に直面した。さらには日本は三国同盟にしたがえばドイツのために対ソ戦争に起つべきであるが、日ソ中立条約にしたがえばソ連のために中立を保たねばならぬという矛盾におちいった。しかし事態は、半面からいえば、ソ連の窮地に乗じて北進でも南進でも思いのままに選択しうる絶好のチャンスを日本にあたえるものとも受け取られた。? 日ソ中立条約を結んだ当の松岡外相は即時対ソ参戦を主張したが、陸軍の一部は南部仏印進駐を遂行すべきであると唱え、さらに北進・南進いずれでもできるよう準備し当面は形勢を観望せよという準備陣論が加わって、戦争指導は混乱におちいり、大本営政府連絡懇談会は紛糾を重ねた。結局到達したのは折衷的な南北併進の方針であった。? 七月二日、御前会議が開催され、「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。これは、「帝国は其の自存自衛上・・・対英米戦準備を整へ・・・仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化」し、その「目的達成の為め対英米戦も辞せず」とするとともに、「密かに対ソ武力的準備を整へ・・・独ソ戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」とするものであった。? まず北進=対ソ武力行使については、極東ソ連軍が対独戦投入のためョーロッパへ西送され手薄になるのを待って実行することとし、「関東軍特種演習(関特演)」の秘匿名称のもとに、帝国陸軍創設以来の空前の規模である総兵力八五万人の一六個師団基幹態勢を整える大動員が決定され、七月二日允裁をえて関特演が発動された。? ところが極東ソ連軍の西送は日本側が期待したほどすすまなかった。当初は大混乱におちいったソ連も、七月に入ると態勢をたてなおし、長期抗戦体制を整えはじめ、ドイッ軍の進撃テンポは鈍化した。そこへ 後述のように南方問題が急迫したため、八月九日参謀本部は年内対ソ武力行使を断念し、南進=対英米戦準備に専念することとなった。しかし武力行使にはいたらなかったものの、関特演がソ連に東西両面戦争の脅威を及ぼし、日ソ中立条約に違背する背信行為となったことは明白であった。?  * シペリア方面は一一月以降は酷寒となり、作戦期間は九、一〇月に限られるため、開戦決意は八月上旬に下すとを必要とした。なお、この情報はソ連赤軍の諜報員ゾルゲによりモスクワに通報され、極東ソ連軍の西送対独戦投入に寄与した。 ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記の「三国同盟の敵側すなわち英米陣営の側へ追いやることにほかならなかった。日本は四国協商的構想を完全に崩壊させられた」を裏付ける、展示パネルが靖国神社・遊就館展示室「大東亜戦争」にあった。(何時の間にか撤去されたが。)


父長谷川幸二は、昭和16年7月9日第九師団工兵第52連隊に応召、「関特演(関東軍特種演習)」に、昭和18年2月4日召集解除となるまで参戦した。しかし、母には戦地を教えなかった。
関東軍は、満州の4分の3を放棄し、長期持久の「ト号作戦」とした。
管理人は「遺棄毒ガス中国人被害損害国家賠償請求事件」支援団体事務局長だったことから、関東軍第五軍司令部があった敦化市を訪ね、毒ガス戦の実態を探り、第十六野戦兵器廠本部があった大橋(たいきょう)と毒ガス弾を遺棄した沙河沿(さがえん)飛行場跡の調査によって、関東軍の「ト号作戦」を知ることが出来た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「ト号作戦」 昭和20年5月30日、大本営は関東軍を完全な作戦態勢にきりかえて、戦闘序列を令するとともに、同じ日、満鮮方面対ソ作戦計画要領に準拠して、対ソ作戦準備をすべき命令も出された。−、大本営は、鮮満における対米作戦および対ソ作戦準備の強化を企図す二、第17方面軍(朝鮮筆)司令官は中、南鮮に侵達する敵を撃滅すべし三、関東軍総司令官は、現任務を遂行するほか、来攻する米軍を撃滅するとともに、北鮮(成鏡道、平安道)における対ソ作戦準備を実施すべし この対ソ作戦計画要領は、昭和19年9月に示達された“帝国陸軍対ソ作戦計画要衝”に必要な修正を加え、満鮮を打って一丸とする徹底的全面持久計画でーーこれが関東軍の終局的作戦計画となったのである。 この命令によって、与えられた対ソ作戦計画要額というものは、もとより頭ごなしに交付されたものではなく、大本営、関東軍当事者間で、事前に十分打合わせのうえ、双方の合意において、形式として命令化されたものである。 こうして、その計画の中核基本をなした作戦任務は、「関東軍は京図線以南、連京線以東の要城を確保して持久を策し、大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」というのにあった。 つまり、このごろには、大本営の本土決戦の考えが確定し、そのためには大陸の一角に、とにかく持久健在する策応軍の絶対必要性が大きく浮かび上がってきたのである。だから、総花式な決戦はもとよりのこと、持久も長期持久で、軽々しく敵に決戦を強要されるような方策は極力警戒しなければならなかった。柔道でいうなら、グッと腰をうしろに引いて下げる作戦であり、将棋にたとえれば、千日手に持ちこむというところでもあろうか。 もっとわかりやすく説明すると、関東軍は満州の東辺道にたてこもって、大持久戦を実行し、本土決戦を有利にせよというものであった。 放棄地帯といっても、無条件放棄や宣言放棄ではない。作戦放棄であるから、広義には作戦地域たるにちがいはない。結局、作戦を発動することになれば、下の図のように、全満のオリンピック作戦しても、通化の要域だけは確保せよということであった。 しかし、だからといって、軍には従来の慣性もあり、準備もある。しかも、いろいろの準備は、一夜にしてできあがるものではない。また、現に存在する築城なり飛行場、あるいは施設は、可能な範囲で利用しなければならず、企図の秘匿や静謐(せいひつ)保持のことも、大いに考慮の必要がある。【元陸軍大佐草地貞吾著 「その日、関東軍は 元関東軍参謀作戦班長の証言」から引用】
作図は管理人

2015年1月5日blog記事「天皇明仁は、なぜ「満州事変」を学ぶのか」


「天皇陛下の新年の感想」 全文『昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。 また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。 各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります。』 管理人は、天皇(現上皇)明仁が「戦争」と言われたときに「満州事変に始まる始まるこの戦争」と定義されたのかを考えました。一路、戦争の出来る国づくりに猪突猛進している安倍晋三総理大臣に「この戦争」をしっかりと学んでもらいたいと考えているのでしょうか。 歴史研究者は「十五年戦争」又は「アジア太平洋戦争」と定義しています。 日本近現代史研究家江口圭一氏は『満州事変と日中戦争とアジア太平洋戦争とはばらばらの戦争ではなく、相互に内的に関連した一連の戦争であった。満州事変の延長上に華北分離工作を介して日中戦争が発生し、日中戦争の延長上に第二次世界大戦と連動してアジア太平洋戦争が生起した。しかも、満州事変の産物である満州国を解消するか否かが日米交渉の最大の争点の一つであって、その意味では満州事変とアジア太平洋戦争との間にも直接的な関連が存在していた。さらに日本の中国にたいする武力侵略はこの十五年にわたって間断なく継続しており、拡大の道を歩んでいた。以上のような連関性において、これら三つの戦争はは十五年戦争という総称のもとに一括される。』と青木書店刊「十五年戦争小史」で述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(了)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ