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人骨の会主催「お花見ウオーク」ガイド風景@【陸軍士官学校】其の二 

2023年03月30日 外部ブログ記事
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GHQは、大本営陸軍部一号館講堂を「極東国際軍事裁判」の法廷とした。


市ヶ谷記念館の壁掛け地図



新宿区教育委員会刊 1947年7月 新宿区詳細図

東京裁判終了後に「米軍パーシングハイツ」となり、米極東軍事司令部、国連軍司令部、米軍将校宿舎等に使用した(赤い星マーク)。「第一復員庁」の文字が見えるが、陸軍は第一復員局、海軍は第二復員局で将兵の復員業務を行なった。後に厚生省復員援護局となる。
北側に「倉庫」の文字が見えるが、木造倉庫や厩舎を改造して、引揚者の公務員住宅(1963年迄)や大蔵省印刷局市谷工場となった。北西の敷地には「厚生省大臣官房統計情報部」となり、現在は39建て超高層マンション「ザ・センター東京」となっている。隣には特定郵便局「市谷郵便局」があったが、戦前の「大本営郵便局」である。
陸軍大佐服部卓四郎は「戦史叢書」の準備作業をした。後に朝雲新聞社が「戦史叢書」を発刊した。
東條英機高級副官美山要蔵は「祭神名票」の作業を行い、その「祭神名票」を靖国神社に送付した。国時神社は「祭神名票」の将兵を英霊として合祀し、遺族に通知した。
1960年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が置かれる。1号館は陸上自衛隊東部方面総監部及び陸上・海上・航空自衛隊幹部学校等として使用した。



通信塔の高さ100メートル。

1970年11月25日に作家の三島由紀夫が、一号館バルコニーで憲法改正のため自衛隊に決起を呼びかけた。後に割腹自殺をした。三島由紀夫が隊長を務める楯の会のメンバーも事件に参加した。
旧陸軍大臣室だった陸上自衛隊東部方面総監室の扉に刀傷が付いている。(市ヶ谷記念館二階)

1987年8月28日、防衛庁(中曽根内閣)が市ヶ谷地区(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)への移転計画を決定。
日本共産党国会議員団及び新宿区議会議員団は、尾張徳川家上屋敷跡地の埋蔵文化財の保存と防衛庁移転反対の運動を始めた。





1993年11月9日、第118回国会参議院内閣委員会で「1号館保存問題」の集中審議。A級戦犯板垣征四郎の息子板垣正議員(自由民主党)、いとう正敏議員(日本社会党)、聴濤弘議員(日本共産党)は、東京裁判についての評価の相違はあったが、歴史的文化財としての士官学校一号館は、保存すべきであるとの見解は一致し、翌年1月28日、参院本会議で「保存を求める請願書」を採択した。1993年12月1日新宿区議会議員提出議案「市ヶ谷台一号館の保存を求める意見書」を全会一致で可決。
1963年12月15日、防衛庁が「一部保存」を正式決定した。
1999年3月30日、竣工した「市ケ谷記念館」が報道陣に公開し、一般公開も始まる。
しかし、市ケ谷記念館では陸軍士官学校時代から「市ケ谷台」の歴史は語られているが、「東京裁判」については僅かしか展示されていない。
東京裁判法廷の世界史的意義や裁判経緯について展示するよう、防衛省に働きかけをする運動団体が「防衛省市ヶ谷記念館を考える会」である。
詳細は「防衛省市ヶ谷記念館を考える会」のホームページ
『防衛省市ヶ谷地区見学「市ヶ谷ツアー」のご案内』




(続く)
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