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平成の虚無僧一路の日記

一休の母 

2022年12月16日 外部ブログ記事
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一休の母について、日野中納言の娘「伊予局」とか、藤原顕純の娘、花山院の娘などと、色々云われているが全部嘘である。根拠は全く無い。母について書かれた唯一の書は、一休没後まもなく弟子達によって編纂された『一休和尚年譜』である。そこには、「母は藤原氏、南朝の高官の胤、後小松帝の寵愛を受けていたが、懐剣を隠し持って帝の命を狙っていると后に讒言されて、宮中を追われ、民間にはいって一休を生んだ」としか書かれていない。日野とするのは、後年楠木の残党が禁裏を襲って三種の神器を奪う事件が起きた時、日野某が手引きしたことによるものと考えられる。昭和36年、大阪に住む楠木の子孫と名乗る人が、系図を公開し、新聞に載り話題となった。そこに「楠木正成の三男正儀(まさのり)とその子正澄が河内倉満ノ庄津田村(現枚方市)を経て、八箇ノ庄水島(現門真市三つ島)に移り住んだ。正澄の三女が後小松院の官女となり、一休を産んだ」と、かなり具体的に書かれてあった。「慶長17年(1612)年に書き写した」との奥書もあって、真偽論争もされぬまま、忘れ去られている。京都大学教授の「東 光(あずまひかる)」という教授が太鼓判を押して発表したので、後に何かの記事に「“今東光”氏も楠木説」とあって笑ってしまった。「今」氏もあの世で ビックリしていることだろう。門真市三つ島の下三島公園横に「一休の母の墓」というのがある。たぶん、昭和36年にこの記事が公表されからのものと思われるが、もしそれ以前から、そういう言い伝えがあったとすると、この「楠氏系図」を裏付けるものとなる。真相はいかに。

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