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東本高志さんが投稿された「英女王エリザベスの死をめぐって」を読みました 

2022年09月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



Facebook友達の東本高志さんが投稿された「英女王エリザベスの死をめぐって」を読みました。
『 次にツイッター上に現れた図像も凝っている。エリザベスが身に纏う、王冠をはじめとする装飾品が、それぞれどこから「盗まれた」ものであるかを名指しする。南アフリカ、ケニア、ナイジェリア、オーストラリア、インド、エジプト、バルバドス、フィジー。文字通り、英国が七つの海を制覇した世界史上最初の植民地帝国であったがゆえの足跡を跡づける地名である。それが、王室が築き得た富の源泉をなしているのだと、見る者に説得力をもって語りかける図像である。』とあります。
「“魔都”上海」に関する書籍を読んでいると、大英帝国の植民地主義が及ぼした罪悪の深さを知ることが出来ます。
その一つが「三角貿易」でした。榎本泰子著「上海 多国籍都市の百年」から「三角貿易」についての部分を抜粋します。
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 「租界」の誕生 4〜7頁 中国では古来、政治や文化の中心は北力にあり、長安(西安)、開封、洛陽などが歴代の都として栄えてきた。南北朝時代から開発の進んだ江南(長江以南地)は、宋代になって 大きく様相を変えることになる。12世紀、北方異民族王朝の金に滅ぼされた宋の皇帝の弟が、南下して臨安(杭州)に都を置き、南宋の時代が始まった。帝室の移動とともに、漢民族の文化は江南に移り、杭州、蘇州、無錫などが新たににぎわいを見せるよぅになる。特に蘇州は大運河(北京と杭州を結ぶ世界最長の運河)に沿い、水運で栄えた大都市であった。蘇州の絹織物は運河で中国各地に運ばれ、のちには長江から外洋へと輸出されて世界のあこがれとなった。 蘇州の東65キ口メートルほどのところに位置する上海も、この時代から発展を始める。まず長江の支流である黄浦江の西岸に人が集まり始め、南宋末期に「鎮」(村に相当)とな った。元代には「県」(町に相当)となり、明代には城壁が築かれ、都市らしい姿を整えていく。東海(東シナ海)に面した地域は塩田として開発され、塩の交易で富を蓄えた地元の街は「小蘇州」と呼ばれた。綿花の栽培も始まり、綿花や綿布が商品として売買されるようになった。しかし結局のところ、上海は絹織物や陶磁器のような、人々のあこがれの的になる特産品に乏しかった。19世紀前半までに、蘇州や杭州、南京などは南方有数の都市に発展したが、上海の繁栄はそれには及ばなかった。 上海は潮の香りのする風が吹く、一地方都市に過ぎなかった。その運命を大きく変えたのは、外国人の到来である。18世紀半ば以来、イギリスは中国の茶などを求めて盛んに貿易を行なっていたが、鎖国政策を採る清朝は交易を南方の広州一港に限定し、公行と呼ばれる特定の商人との取引しか認めていなかった。イギリス商人はこのょぅなやり方に不満を持ち、自由貿易を求めていた。その目的は中国の物産をもっと自由に、大量に売り買いすることだけではない。産業革命によって量産されるようになった自国の工業製品を、広い中国の市場で売りさばきたかったのである。? 19世紀に入ってチャンスは訪れた。アヘン戦争(1840〜42)である。イギリスは、食卓に欠かせなくなった中国の茶を輸入するため、莫大な銀を支払っており、銀の不足に悩んでいた。それを打開するために採られた方策が、植民地インドを取り込んだ「三角貿易」である。イギリスの綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへと運ぶ。こうすると代価の銀は三国をうまくめぐり、イギリスの輸入超過および銀不足も解消されるのだ。清朝はアヘンの輸入や吸引を禁じていたので、イギリスは密貿易の形で巨利を得るようになる。そして今度は逆に、清朝の銀が大量に流出するようになった。 危機感を覚えた清朝は、アヘン厳禁論者の林則徐を欽差大臣(特命全権大使)に任命し、林は広州でアヘン約2万箱を没収して焼却した。怒ったイギリス商人たちは、これを機会に武力で自由貿易を実現させようと、本国の議会に働きかけ、ついに戦争が始まった。清朝の抵抗もむなしく、圧倒的な軍事力で勝利したイギリスは、戦争の代価として五港の開港と香 港島の割譲などを認めさせた(南京条約)。 条約によって開かれた五港がすなわち広州、厦門、福州、寧波、そして上海である。上海は中国沿岸のちょうど中ほどにあたり、広州など南方の港と、天津など北方の港とはほぼ等距離で結ばれている(天津は第二次アヘン戦争>アロー戦争>を経て、1860年の北京条約で開港されることになる)。外洋船は東海から長江の河口をさかのぼり、支流の黄浦江に入ると間もなく上海の船着き場に着く。ここで小型の船に荷を積み替え、河や運河を使えば、中国の内陸部まで分け入ることができる。イギリス人が注目したのはまさにこうした「地の利」であり、上海は自由貿易の拠点として白羽の矢を立てられたのだった。? 1843年11月、イギリス初代領事バルフォアの一行が上海に到着し、上海道台(清朝の地方官で上海行政の責任者)宮慕久と会談した。道台は、城壁に囲まれた県城の中におり、今回の「夷務」(外国人との交渉)をすべて任されていた。イギリス人にとって、領事館の設置や、将来家族を住まわせるための住居などが当面の課題であり、そのために土地の租借が必要だった。1845年、最初の「土地章程」(土地に関する規約)に基づいてイギリス租界が設置された。黄浦江西岸の一角、つまり船着き場に隣接した地域である。そこを永久に租借すること、中国人が居住してはならないことなどが定められた。「租界」とは「居留地」 (settlement)の中国語訳で、「区?られた借地」の意味である。(ゴジックは管理人)
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ウイキペディア「イギリス英国」より


ウイキペディア「アヘン戦争」より

ウイキペディア「清」より

ウイキペディア「イギリス領インド帝国」より

(続く)
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