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葵から菊へ
謎解き「高峰三枝子と岸信介」
2022年09月06日
テーマ:テーマ無し
日本共産党中央委員会出版局刊「原理運動と勝共連合」に下記のような文章がありましたが、あの女優高峰三枝子と元総理岸信介との関係はどうような繋がりなのかと不思議でした。
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A級戦犯岸元首相とのゆ着(86頁) 勝共連合との密着度においては福田(赳夫)氏をうわまわるとみられているのがA級戦犯容疑者の岸信介元首相である。1965年12月6日。東京の空は雲でおおわれ、最高気温13・4度とうす寒い一日であった。前々日の4日には、国会の参議院日韓特別委員会で政府、自民党が、朴政権を朝鮮の唯一の政府と認める日韓条約を強行採決していた。 その日、統一協会の学生部は東京・渋谷の高級住宅街、南平台のある建物に事務所を移転させた。そこの建物は堂々たる門がまえで、広い庭をもっていた。ただ、入居したときは3ヵ月ほど人が住んでいなかったせいか、邸内がひどく荒れていた。その建物は、女優、峰三枝子さん所有のものであったが、岸氏の私邸の続き隣りにあったことから岸氏が首相時代に借用していたというのである。はたして統一協会の学生部が入居するにあたって、岸氏は関係していなかったのであろうか。
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新潮文庫 佐野眞一著「阿片王 ― 満州の夜と霧 ―」274〜277頁「大陸新報」には、美濃部(亮吉)都政を陰で操ったといわれ、都庁のラスプーチンという異名までとった小森武も在籍した。"上海人脈"は、児玉誉士夫や笹川良一に代表 される右の翼だけではなく、左の翼も戦後社会に長い影を伸ばしている。 里見のはかりしれないところは、右であれ左であれ、その根元の中心軸を最深部で引ってグリップし、それでいてそのことについて一切語ろうとしなかったことである。 里見の沈黙には、戦中から戦後に通底する、肥沃と不毛をもたらす濁流が澱んでいる。 しかし、里見が戦後選択したのは、その瀬の流れを胸の奥深く沈潜させたまま、20年という長い歳月を「余生」と見定めた影絵さながらの人生だった。
第八章 孤高のA級戦犯
敗戦から約20日後の昭和20(1945)年9月6日、里見は中華航空のダダラスDC型双発機に搭乗して、福岡の雁ノ巣飛行場に帰着した。満州から上海まで股にかけ た大陸時代、里見は日本にしばしば立ち寄ったが、故郷の福岡に戻るのは、青島の芸妓と一緒に日本に引き揚げ、一時立ち寄ったときを除けば、東亜同文書院に入学した大正2(1913)年以来、30年ぶり以上のことだった。 当時、里見は中華航空顧問の肩書をもっていたので、一日に2回日本と上海間を往復する中華航空の座席を確保するのはそう難しいことではなかった。 にもかかわらず帰国がかなり遅れたのは、里見の晩年の秘書的存在だった伊達弘視によれば、妹のように可愛がっていた女間諜の川島芳子が漢奸で裁かれ、銃殺刑に処せられるのを見越した里見が、旧知の臨済宗僧侶・古川大航こと古川清行に因果を含め、芳子の遺骸引き取りと後事を託したためだという。古川の名は里見遺児の芳名帳≠ノも出てくる。? ? 里見を雁ノ巣飛行場で出迎えたのは、コールマン髭の小泉武雄だった。里見の大陸時代のカバン持ちで、芳名帳≠ノも名がある小泉は、一面焦土と化した東京に戻った。世田谷区成城の広壮なお屋敷を提供した。(世田谷区成城683番地:現在の住居表示成城6−17−3。)前述したように、小泉はその後、満州人脈を頼ってカストリ雑誌の「ロマンス社」に入るが、奇しきことに、そこには国通傘下の通信放送会社・満州電々の社員として、国通時代の里見とも顔見知りだった福田太郎がいた。ロッキード事件で一時世間を騒がせた、あの福田太郎である。 里見は成城の屋敷に落ち着く暇もなく、京都に潜伏した。隠れ家は銀閣寺にほど近い京都市左京区の吉田神楽岡だった。その家には、里見の帰国から4日後の9月10日に、 上海を脱出した森田継生ら里見一 昧と目される面々たちも、やがて屯するように集まっ た。森田未亡人の文子さんはいう。「青い十字マ-クがついた小さな飛行機の荷物は、ほとんどが軍の書類でした。その上に私たち夫婦と、主人の仕事仲間、それに無理矢理乗せてくれといってきた高峰三枝子の彼≠フ鈴木のケン坊(本名.鈴木健二)の4人が座って、上海の大場鎮飛行場から福岡の坂付飛行場まで帰ってきたんです」 ここに出てきた鈴木ケン坊こと鈴木健二は、一説には上海で里見が経営するキャバレーのドアボーイをやっていたこともあるという。しかし、里見が上海でキャバレーを経営していたという話は、里見の性格からいってきわめて疑わしい。? おそらくこの話は、里見と気心の知れたキャパレー経営者が、里見に頼んで「上海の夜の王様」といわれた里見の名前を看板がわりに使わせてもらったか、あるいは鈴木のケン坊自身が、自分に箔をつけるため、オレは里見のキャバレーにいたと吹聴したところから出た可能性が高い。この話に限らず、暗黒街のビッグネームの里見は、自分の知らないところで勝手に??を使われることが多かった。
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「アスネタ」に??「高峰三枝子の息子が逮捕、孫は元女優。夫との離婚と自宅。死因は脳梗塞、若い頃が美しい」が、ありました。
高峰さんの夫・鈴木健之さん(佐野眞一は健二である。)は、太平洋戦争中に将校として、特務機関で暗躍していました。戦後は英文雑誌の発行に携わる実業家となり、高峰さんと結婚。夫婦で競馬を楽しむなど、一時は仲良く暮らしていたようです。しかし徐々にすれ違うようになり離婚。離婚後は窮乏して、息子の清貴さんにお金の無心をするようになったのです。清貴さんは10代の頃から不祥事を起こしていたものの、大学にはしっかり進学しました。慶應義塾大学を卒業すると、貿易会社の経営者となります。しかし父親からの請求額が大きくなり、やがて800万円の小切手を決済できなくなってしまいます。結果的に貿易会社は倒産し、やむを得ず覚せい剤の取引に手を染めたのです。清貴さんとしては成人後、真面目に働くつもりだったにもかかわらず、父親のためにすべてを失ってしまいました。奇しくも清貴さんの逮捕と同日に、父親の健之さんもニューヨークでヘロイン所持により逮捕されています。高峰さんの心中を推察すると、胸が痛みますね。高峰三枝子の自宅は田園調布高峰さんの自宅は東京の高級住宅街である田園調布にありました。最後に暮らしていたのも田園調布の自宅ですが、高峰さんの死後どうなったかはわかっていません。2022年現在はすでに取り壊されているか、親族の方が暮らしているのでしょう。富裕層向けの住宅として、売却された可能性もありそうですね。高峰さんは大スターらしく、複数の自宅、邸宅を所有していました。元々暮らしていたのは、経営していた料亭を改造した築地の自宅です。南平台にも邸宅を所有して、当時の岸信介首相に貸し出していたこともあります。「総理の大家さん」として、政界の大物から慕われていたことがうかがえますね。高峰三枝子の死因は脳梗塞高峰さんは1990年4月18日、田園調布の自宅で倒れました。脳の血管が詰まり、血流が途絶える脳梗塞を発症したのです。東京都世田谷区の日産厚生病院に搬送され、一時は意識が回復。命の危機は脱したと思われましたが、約1か月後の5月25日に容態が急変します。2日後の27日に、71歳で亡くなりました。最期まで「早く仕事に戻りたい」と口にしていたことから、プロの女優魂が垣間見られますね。昭和を代表する美人スターだった高峰さん。いわゆる原節子さんのような大きい瞳と通った鼻筋の、典型的な美人ではありませんでした。外見の美しさというよりも、美しい佇まいで周囲を圧倒していた印象があります。身から漂う色気に加え、透き通るような歌声も魅力でした。若い頃の美しい佇まいの高峰さん、さらにベテラン女優の貫禄が加わった高峰さん。映画を見比べたり、歌声を聴き比べたりして、いずれの彼女が好みか考えてみるのも楽しいですよ。?高峰さんの自宅は東京の高級住宅街である田園調布にありました。最後に暮らしていたのも田園調布の自宅ですが、高峰さんの死後どうなったかはわかっていません。2022年現在はすでに取り壊されているか、親族の方が暮らしているのでしょう。富裕層向けの住宅として、売却された可能性もありそうですね。高峰さんは大スターらしく、複数の自宅、邸宅を所有していました。元々暮らしていたのは、経営していた料亭を改造した築地の自宅です。南平台にも邸宅を所有して、当時の岸信介首相に貸し出していたこともあります。「総理の大家さん」として、政界の大物から慕われていたことがうかがえますね。
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ウイキペディアより
「満州人脈」と「上海人脈」から高峰三枝子と岸信介は繋がっていると「謎解き」をしました。(ゴジックは管理人。)
(了)
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