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葵から菊へ
『岸信介編』A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜
2022年08月31日
テーマ:テーマ無し
前回の記事で『この特殊な関係というのは、おそらくこういうことだ。訴追するかどうかは、結局はGHQの意向次第であり、不起訴を決めたGHQ側と釈放された元A級戦犯容疑者との間では、明らかにGHQ優位の関係ができた。要するに貸し借りの関係である。GHQ側がこうした元A級戦犯容疑者を一種のエージェントとして使おうという腹づもりがあったことは容易に想像できるが、元A級戦犯容疑者の側もこのコネクションを利用して、日本社会のなかで地歩を固めようとしたものと思われる。その代表例が岸信介、児玉誉士夫、笹川良。正力松太郎、緒方竹虎といったところで、なかでも岸と児玉は、GHQとのコネクションをバックに政界.右翼の世界でそれぞれトップクラスの黒幕にのし上がっていったことはよく知られているとおりである。』と記述した。これに比べると「東京裁判ハンドブック」の分析と評価は甘いと思考している。
2015年2月徳間書店刊「日本戦後史論 内田樹×白井聡」には、『岸信介がCIAのためにどういう活動していたかなんていうのは、安倍晋三がいる限り日本では資料は公開されないでしょう。」「岸ファィルについては例外扱いで、公開されていないのだそうです。戦後の日米関係の根幹、ひいては現在の日米関係を揺るがしかねないという判断なのでしよう。』という記述がある。安部元総理が死去しましたので「パンドラの箱が空いた」状況になった。アメリカから「CIA・岸ファイル」が公開されることを強く要望したい。
参考ブログ記事>日本戦後史論 内田樹×白井聡 「岸ファィルは安倍晋三がいる限り、日本では資料は公開されない」<
『謀略の昭和裏面史』から『巻頭インタビュー 佐野眞一 昭和の裏面をどう読むか 戦後日本を作った知られざる「満州人脈」』
――佐野さんは、かつて上海で日本軍の下請けとしてアへン密売組織「里見機関」を率いた里見甫の軌跡を検証した『阿片王・満州の夜と霧』(平成17年・新潮社刊)や、読売グル−プやジャィアンツを作つた人物の功罪を描いた『巨怪伝〜正力松太郎と影武者たちの一世紀』(平成7年・文藝春秋刊)をはじめ、歴史の教科書に載っていない、いわば昭和の裏面史、とでもいうべきテーマで数々の作品を発表されていますが、昭和という時代を俯瞰して捉えようとするとき、どんなところに注目すべきだとお考えですか? 「まず、昭和という時代は昭和20年8月15日を境にガラリと変わるわけですね。それまでの軍国主義の社会構造や価値観が全部否定され、新たにアメリカ式の民主主義という概念が入つてきた。大都市は焼け野原で、すべてを一から作り直さなければならなかつたということもありました。だから、戦後の日本では、誰もが日本はすべてが変わつ たというふうに恐れてきました。とくに戦前をすべて否定するような教育環境で育つた戦後生まれの人間などからすれば、昭和20年以前の日本はほとんど同じ国とは信じられないほどですよね。 それはたしかにオモテから見るとそうなのですが、はたして本当に日本は戦前と戦後でそんなにスッパリと分かれているのか?ということを考えてみる必要があると思います。とくに見落としてならないのは、戦後日本を再建した人たちというのは、なにも突然どこからか出現したわけではないんですね。戦前からの人脈が戦後に受け継がれた部分というのは確かにあって、そういう怠味では日本という国はやっぱり連続しているんですよ」――ですが、国の指導者はA級戦犯ということで葬られてしまいましたし、国家の指導的役割をった人脈はそこでいったん途切れたということではないのですか? 「A級戦犯に限らず、戦争で亡くなった人はたくさんいます。けれども、そこを生き抜いた人もたくさんいる。それは国家の指導層でも同じで、アメリカに占領されたとはいえ、日本の政府はやはり戦前からの指導者層によって維持されているんですね。 たとえば、A級戦犯で死刑になった人は7人ですが、A級戦犯容疑者として拘留され、後に不起訴となって出てきた人はそれよりずっと多い。『巨怪伝』で書いた正力松太郎もそうです。彼は読売グル-プの総帥にして日本プロ野球の生みの親なわけですが、じつは戦前には警視庁警務部長を務めた大物警察官僚で、戦時中も大政翼賛会総務や貴族院議員を務めていたんですね。終戦後はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンにも入っていたという人物です」――そういう人物がなぜ戦後あれほどまでに復活できたの ですか? 「いちばん大きかったのは、GHQ経済科学局局長の副官だったキャピ−原田という日系2世の米軍情報将校に助けられたことです。原田はかつてアメリカのノンプロ野球チームの選手だったことがあって、昭和11年には訪米した巨人軍と対戦してあの沢村栄治からホームランを打っているような人物なんですね。それで故国のプロ野球再興に尽力するのですが、そのとき彼は正力と組むわけです。 それで正力が初代コミッショナーに就任することになるのですが、それが正力が日本社会で復権を果たすうえでの足がかりになったのです。しかも、その後の正力は初の民間テレビ局である日本テレビを開局し、巨大なメディア・グループである読売グループを育て上げました。読売グループは周知のとおり保守反共路線ですね。 それから彼は原子力の導入にも大きな役割を果たしていくことになります。こうした正力の軌跡は、そのままアメリカの対日政策の変遷と重なります。これは決して偶然ではないと私は思いますね」――アメリカが正力松太郎を利用したということですか? 「おそらくそうなんでしようが、逆に見れば、正力がアメリカを利用したということも言えます。 いずれにせよ、彼はなにも戦後いきなり読売グループの総帥になり、プロ野球コミッショナーになったわけではなく、戦前にすでに読売新聞の経営者であり、巨人の才−ナーだった。それがアメリカ占領軍の関心を呼び、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されていた彼のまさかの復活を助けた。? 彼のほうでもそれを利用し、やがてメディア界でものすごい権力を得るまでになっていくわけですが、ここで重要なのは、戦前にそれなりに活躍し、戦犯容疑なり公職追放なりのペナルティを受けた人間が復活するというときには、 それぞれなんらかの特?な事情があつたということです。 その多くのケースでは正力のようにGHQとの特殊な関係というものだつたわけですけど、そうした事情というのはみんな大つびらに話したりしませんから、なかなかオモテには出てこない。 戦後まもない日本で各界の指導層となつた人というのは、みな多かれ少なかれそういつたなんらかの事情を持つています。こうしたことは、それこそ歴史の教科書には載つていない話ですが、昭和という時代、とくに戦後日本の成り立ちを知るためには非常に重要な話になります」――人脈という観点ではどうでしょう? 戦前の人脈が戦後に引き継がれ、水面下で戦後の日本社会に大きなインパ クトを与えたということはありましたか? 「それはいろいろあります。たとえば『電通』という会社――麻薬密売機関の機関長がどう広告代理店と関わるのですか? 「里見は上海でアヘン取引組織を作る以前は、満州で ジャーナリストをやっていました。しかも、関東軍と結託 して情報宣伝工作・宣撫工作のようなことをやっていたの ですが、その一環として国策会社『満州国通信社』の設立に尽力して、その初代の主幹になっています。 その満州国通信社というのが当時、日本の二大ニュース通信社だった聯合通信社と電報通信ー(電通)の満州での通信網を合併させたものだったのです。そして、それが引き金となって、陸軍主導で聯合と電通の本体でもそのニュース部門が合併して一本化される。それで日本のニュース配信は新会社の同盟通信が一元的に行なうようになって、報道部門を失った電通は広告専門の会社になった のです。 ですから、電通が今のような広告会社になったきっかけを作ったひとりが里見だったということになるのですね。 里見自身はその後の電通とは関係しませんでしたが、電通と里見人脈との関係というのはその後もしっかりと生きていて、戦後も満州国通信社OBから多くの人材が電通に流れています。 しかも興味深いのは、戦後の電通を再建した吉田秀雄という人物は、日本に民主主義を根づかせるというアメリカの意に沿って日本各地に民放を作り、そこに宣撫工作に長けた満州国通信社出身者を配した。そういう人材は、地方には今でも残っています。 こうして見ると、戦後の日本のメディア構造というのは、満州での経験、あるいは満州人脈というのが非常に大きく関わっていることがわかります。これもまた昭和の裏面史と言っていいでしょうね」――戦後日本の再建に、満州人脈が関わった例はほかにもありそうですね。 「その典型的な例が、岸信介の人脈でしょう。岸はもともと満州国産業部次長・総務庁次長として満州国の経営を取り仕切った人物です。 岸は満州で、計画経済.統制経済を大胆に取り入れて、 当時はむしろ日本本土よりある面では進んだ国家を作ろうとした。岸が後に『満州国は私の作品』と言ったのは有名ですが、こうした満州国の建設に携わった人々、いわゆる満州人脈が、昭和32年に首相となった岸と協力し、満州での実験的な経験を元に満州で果たせなかった夢を戦後の日本で、高度経済成長というかたちで結実させたということがいえます。 この満州人脈には、政治家では椎名悦二郎、大平正芳、伊東正義などがいますし、あるいは国鉄総裁として新幹線の建設を取り仕切った十河信二もそうです。高度経済成長を牽引した経済企画庁、通産省などにも満州人脈がかなり入っています」――なるほど。そういうことも歴史の教科書からはわからないことですね。 そういえば、岸信介も先ほどの正力松太郎と同じく、A 級戦犯容疑者から復活して権力者になった人物です。裏の世界でも、笹川良一や児玉誉士夫のように元A級戦犯容疑者から一転して日本の黒幕と呼ばれるようになるフィクサーが出ています。どうもGHQの意思がそこには感じられる気もするのですが・・・・。 「互いの思惑が 一致したということなのでしょうね。とくに岸信介とアメリカとの結びつきは強固なものがあります。 だからといつて、アメリカが岸を操作したとまでは私は見ていませんが」(以下略)
2017年に訪中した時、「里見機関」の里見甫が住んでいた上海の「ピースアパート」及び「梅機関」影佐禎昭の自宅を見学した。里見甫は、GHQから戦犯容疑者として取り調べを受けたが、何故か収監はされなかった。
『東京裁判ハンドブック編集委員会編 東京裁判ハンドブック』より
A級戦犯容疑者 極東国際軍事裁判に起訴された28人の被告のほかにもA級戦犯容疑で拘禁(私宅拘禁も含む)された約60人の容疑者がおり、第二次・第三次の国際軍事裁判が予定されていた。このなかには、皇族の梨本宮守正のほか、 安倍源基、安藤三郎、青木一男、後藤文夫、岩村通世、岸信介、谷正之、寺島健らの太平洋戦争中に閣僚だった者、天羽英二、大達茂雄、須磨彌吉郎、本多熊太郎らの官僚出身者、村田省蔵' 鮎川義介、藤原銀次郎、郷古潔、 池田成彬、石原広一郎、大河内正敏、正力松太郎、津田信吾らの財界人、笹川良一、鹿子木員信、児玉誉士夫、進藤一馬らの超国家主義団体の指導者、高橋三吉、西尾寿造、多田駿、真崎甚三郎、牟田廉也らの軍人がいた。 しかし、裁判開始前後から皇族や財界人などの拘禁者 の釈放が実施された。そして1947(昭和22)年8月 からは、つぎつぎに不起訴・釈放がおこなわれていった。 これは裁判が予想以上に長期化し、米ソを中心とする冷戦状況が進み、連合国が共同で新たな国際裁判を開催する条件が薄れてきたためであった。米英両国は、日本の戦争責任追及や戦争犯罪人処罰に急速に熱意を失い、とくにアメリカは、ただ一人の首席検察官の地位など裁判に対して保持してきた主導権を活用して、起訴困難と判 断したA級戦犯容疑者から釈放し、国際裁判終結の既成 事実を積み重ねたのである。 こうしたなか、GHQ法務局は1948(昭和23)年から、岸ら元閣僚8人と豊田副武、田村浩、笹川、児玉ら4人の計12人を、米軍が単独で裁けるBC級裁判に訴追する方針で調査を進め、十分立証できると考えていた。このうち田村と豊田はGHQ裁判にかけられたが、「児玉機関」について決定的な証言が得られなかったことや、東京裁判の判決の結果、「通例の戦争犯罪」の訴因では、広田、重光を除いて文官被告は有罪とされなかったこと、児玉、笹川については十分な証拠が集められなかったことから、残されていた者の訴追をあきらめた。 こうしてGHQは、東京裁判終了後の12月24日、 残されていたA級戦犯容疑者19人のうち、その直前に死亡した多田駿、本多熊太郎を除く17人を不起訴にし釈放した。翌日、須磨彌吉郎と公判手続停止になっていた大川周明を釈放し、A級戦犯容疑者は皆無となった。 これらの訴追されなかった拘禁者のことを、A,級(準 A級)戦犯容疑者と称した。(ゴジックは管理人)
岸信介 岸信介は、1896(明治29)年、山口県に生まれ、東京帝国大学を卒業、農商務省に入った。のちに商工省で革新官僚として知られ、1926(昭和11)年、満州国産業部次長となり、満州国産業開発五力年計画を推進した。その後、東条内閣の商工大臣となり、戦争経済体制確立に積極的役割をはたした。 1945(昭和20)年9月11日、GHQょりA級戦犯容疑者として逮捕令が出され、スガモ・プリズンに拘禁された。しかし、東京裁判の被告には選定されず、1948(昭和23)年12月24日、他のA級戦犯容疑者17人とともに不起訴・釈放となった。 岸が被告に選定されなかった理由は、検察局がなるベく多様な類型の被告を選ぶ方針をとり、岸と似た経歴で あったが昇進が一歩早かった星野直樹が被告に選定されたためと考えられている。また、GHQ法務局では、軍需産業への俘虜使用や中国人強制労働実施の責任から、岸をBC級裁判で訴追することを検討していた。釈放後、政界に復帰し、のち首相となり日米安保条約改定を強力に推進した。1987(昭和62)年8月死去。
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◆A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜
◆『笹川良一編』A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜
◆『児玉誉士夫編』A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜
(完)
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