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>再掲< 1960年6月15日。管理人は国会鉄柵の前で「アンポ反対」と叫んでいました 

2022年06月15日 外部ブログ記事
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 管理人は1959年にやっと日比谷高校定時制(現在は全日制のみ)を卒業し、田中茂商事株式会社のアルバイトから正社員になれました。会社は銀座(当時は東銀座)二丁目で、自宅は新宿区市谷山伏町のアパートでで、母と妹二人の四人暮らしでした。
 60年になると銀座通りや数寄屋通りは、毎日安保反対のデモ隊で埋まっており、新聞一面にはそのデモ隊の写真が大きく掲載されていました。 6月15日は、会社が終わると、足は自然に地下鉄丸ノ内線銀座駅(当時は西銀座駅)から赤坂見附駅へと向かいました。赤坂見附駅から日比谷高校への「遅刻坂」は登らずに、平河町交差点から国会に行きました。参議院側の鉄柵に掴まり周りにいた群衆と一緒に「アンポ反対!」を叫んでいました。その内に誰からともなく「女学生が殺されたぞー!」という声が聞こえてきました。日比谷公園から国会へ向かうデモ隊 その後、新宿駅西口で売っていた「赤旗」を買い、むさぼるように紙面を読みました。間もなく共産党に電話をして赤旗新聞「日曜版」を申し込みました。配達と集金をしてくれたのが、牛込柳町交差点角の文具屋さん塩原洋一(故人)さんでした。民青(日本民主青年同盟)を紹介され、直ぐに加盟したのが23歳の時でした。日本共産党に入党するのは27歳になってからです。

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