メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

雑感日記

平成4年(1992)59歳会社勤めはあと何年か? 

2011年10月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★ この年も会社の業績は全然問題もなくよかったのだが、59歳という年齢は非常に微妙な年齢なのである。
当時は職位は理事にはなってはいたが、その任期は翌年6月までである。
この年の6月の人事が極めてややこしくて、所謂役員登用か退職になるかの別れ際なのである。自分自身よりもむしろ周囲の方の関心が高かかったのである。当時の事業本部長は高橋鉄郎さんで、次の事業部長は二人というわけにはいかないのである
私自身は、業績好調で日経などの取材に追っかけられたり、立教大学の中江先生や、中小企業大学の服部先生などからも注目されたり、
関東サーキットの件では、自民党の副幹事長をされていた山本富雄さん(山本一太さんのお父さん)の依頼で松井田町のサーキットなどもあって、単にバイクを販売するということではなくて、いろいろ手を広げていたのである。
ジェットスキーが売れだして、カワサキオートバイ販売という名前もそぐわないし、グループ全体の再編など、上場しようかなどの話もあったりして、自分のことなどあまり構っていられないほど忙しかったのである。
 
★それでも、ニューヨークに行ってる田崎さんが戻ってくるとか、私自身に「建機の噂があるよ」とか、周囲は非常にやかましかったのである。KMCから戻ってきた百合草君はこの4月にジェットへ異動しているのである。
4月に或るパ―テ―で大庭さんから、『お前は販売のプロだから』などと訳の分からぬ話があったりしたのだが、5月になって『技監』という役職を頂いたのである。 流石にビックリした。
大体『技監』という役職は博士号をとった技術屋さんや、官公庁からの天下りの技術屋さんを役員待遇で処遇するもので、事務屋がそれも技術は全くのオンチの私には甚だ似合わぬ職位なのだが、こんな人事をされたのは、まさに大庭さんらしくて、『お前は販売のプロだから』と言うことで押し通されたたのだと思う。
川崎重工業で初めての事務屋の技監だったのは、『マーケッテング』の分野を「専門知識」と会社が認めて頂いたということで大満足だったのである。
同じ時期に役員になった田崎さんが、彼は私が技術知識は全くないのをよく知っているものだから、『あなた名刺の裏の英文は何と書くのか?』と冷やかすのである。彼は噂通りニューヨークから戻ってきて副本部長に就任したのである。
田崎さんとは若いころからずっと一緒にやってきたし、気心も解っていたのだが、私の方が1年だけ年次が上だモノだから、当時も非常に気を遣ってくれたりした。(田崎さんは川崎重工の社長まで上り詰めたのだが、2輪部門の出身者が重工業の社長になったり、後造船工業会の会長などもやって、なかなか異色なのである。今年から『孫中山記念会の理事長』を引き受けているのだが、NPO The Good Timesのシステムを使って、活性化を図りたいと言われるので、手伝うことにしている。 実は昨日も半日その構想の打ち合わせをしてきた。全く20年前と同じ雰囲気で一緒にやれるのがいいと思っている。)
然し、この人事は非常に有難かったし『マーケッテング』のソフトノウハウを認めて頂いて、事務屋にも技監という道が開けたのは、非常によかったと思っている。その後私の後にも事務屋の技監は何人か実現したのである。
社内よりも、霞が関の中央官庁で『技監』の名刺は非常に役にたった。 天下りした官僚の先輩の肩書が『技監』であったりするので、何かその人たちと同列に見て頂けるのである。 特に『官』でなく『監』は役所では、警視総監の『監』なのである。オモシロイモノだと思った。
高橋鉄郎さんには、いろいろ気を遣って頂いて、カワ販を上場してなどと云われていたが、私自身は折角気楽に自由にイケル販売会社をややこしい上場会社にすることなど、あまり興味はなかったのである。
 兎に角、64歳まで定年としては延長、あと5年間延びたのである。
そしてさらにそのままの職位で、札幌の北海道川重建機建機の経営を頼まれたのである。
川重の職位などには全く関係のない、子会社ではない関係会社だったのである。給料もそこの専務さんの給料が高かったので、それより低い訳にはいかぬと、川重よりちょっとよかったりしたのである。そして、さらに3年間その会社レベルでの顧問料を頂いたりした。
この年から、ちょうど10年、所謂天下りでなくて、最後まで請われて仕事が出来たのは幸いであったと思っている。
 
★そんなその後の10年の進路を分けた、微妙な1年だったのだが、
●関東の松井田のサーキットについては川重の経営会議も通っていたし、山本富雄さんの後押しもあったし、松井田町長以下がまちの命運をかけての事業であったことなどから、この年ぐらいまでは、誠に順調に推移していたのである。
●レース再開3年目であったが、モトクロスは4種目でシリーズ優勝、ロードレースも、塚本、北川のコンビでシリーズ優勝
●新宿や札幌のショールーム展開
●ケイ、スポーツシステムを中心rとする『イメージ戦略』は業界や日経や、立教大学の中江先生の『好感企業の時代』の研究テーマになったり、服部吉伸先生からは、中小企業大学での講義を頼まれたりした年で、前年7万台の目標も達成して、この年が絶頂期だったのかも知れない。
●カワサキオートバイ販売グループは、過去の非常に悪かった時代のままの構造だったので、ジェットスキーも伸びてきたし、この際上場を含めての構造対策が後半は検討されたのである。
売上高は500億円に近かったしグループの規模としては、上場してもおかしくはない規模にまで当時はなっていたのである。
そして翌年1月1日、『カワサキモータースジャパン』と社名も変更し、ややこしかった資本関係も整理して再スタートしたのである。
これらの具体的な話は、また別途、書いてみたい。
 
★個人的には結婚30周年を迎えて、家内とオーストラリアを旅した。
ケアンズも、ブリスベーンも、ゴールドコースも、シドニーも、ブルーマウンテインなどオーストラリアの名所と言われるところをすべてレンタカーを借りて自分で好きなように回ってきた。
当時、ヤマハさんとは、ジェットスキー関係でPW安全協会を一緒に立ちあげて、私はその会長を引き受けていて、仲がよかったので、オーストラリアの最高のヤマハさんのマリーナを紹介して頂いて、最高の席でのディナ―を頂いたりした。
日本人は二人だけあとはみな外人ではなくて現地のお金持ちの中での食事はよかったが緊張もしたものである。
息子には子供が出来たというし、娘はこの年結婚をしている。
娘は、叔母たちに結婚式の当日ちゃんと家で挨拶したかなどと冷やかされていたが、そんなことは一切なかったし、私も娘を送り出すのに特に感慨もなかったような気がする。その日の朝、何年か前に娘と拾ってきた犬のコロの散歩を一緒にしたぐらいのことである。
息子の結婚式は仲人もおらない人前結婚だったが、娘は結婚がしたいのか結婚式がしたいのか?というほどいろんなことに入れ込んでいたように思う。
この1年、公私ともに一つの区切りであったのかも知れない。
 
★NPO  The Good Times のホ―ムページです。
★Facebookのファンページです。
★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。
 
 
 
 
 
 
 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ