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平成の虚無僧一路の日記

一路の歴史講座「熱田神宮 草薙の剣の謎」 

2022年04月10日 外部ブログ記事
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「三種の神器」とは。
誰でも知っている「鏡と勾玉と剣」。ところが、真実は誰も知らない。
「宝剣は壇ノ浦で安徳天皇とともに海中に沈んだのでは?」
「では、宮中にある剣は?」
「では、熱田神宮にあるという草薙の剣は?」
そんな疑問にお答えしjましょう。
日本武尊(ヤマトタケルのミコト)が出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から取り出したという草薙の剣の伝説は、信じている方もおられましょうが、そんな事実があるわけないでしょう。
では、いつ誰がこの伝説を創作し、何の目的で『日本書紀』に盛り込んだのか? が私の関心事でした。
結論から言うと、それは尾張氏です。
尾張氏はその祖先は海洋民族の海人(あま)、海部(かいふ、あま)族でした。
九州から山陰、出雲を経て能登半島まで勢力を伸ばします。その過程で、出雲で鉄の生産にも関わったでしょう。青銅の鉾よりも硬く切れ味のよい鉄剣を所持していました。これが「草薙(くさなぎ)の剣」です。「草薙」というのは、のちに日本武尊(ヤマトタケル)の伝説が作られて、「草を薙いだから草薙の剣」と変わったのであって、『古事記』では「雨の叢雲(むらくも)の剣」、または「都牟刈(つむがり)の大刀」でした。「つむがり」とは「切れ味がするどい」とかいう説もありますが、さてはて?。私は「頭(つむ)曲がり」の太刀ではなかったかと思っています。これは鉄製でペルシア由来ではないかと。尾張=海部氏はペルシアからの渡来人ではないかと。

ところが、現在、熱田神宮に伝えられているという「草薙の剣」は、江戸時代に見たという記録から「白銅製の鉾」です。

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ということは、いつの時代かに、「草薙の剣」は入れ替わっているのです。
「草薙の剣」については別稿で書きますので、『日本書紀』に、書き込まれた理由は。
尾張氏は壬申の乱で大海(おおあま)の皇子を助け、天武天皇の即位に多大な貢献をしたのですが、その後も大和の中心では活躍できず、尾張地方の一豪族にすぎない扱いでした。もっとも天武天皇は皇族中心の中央集権化を図り、豪族を大臣などの要職にはつけませんでした。
それで尾張氏としては、『日本書紀』の編纂に当たって「各豪族の由緒。伝承、説話」を求められた時、「先祖は天照大神と同じ天孫族」であること、熱田神宮が所有する剣は皇室の「三種の神器」の一つであることを創作してねじ込んだのでした。というのが私の考えです。
しかしそれでも、熱田神宮はずっと尾張の三宮の扱いでしたし、日本史上、持統天皇と明治天皇以外、天皇の行幸は全くないというありさまでした。
持統天皇は天武天皇の妃ですから、壬申の乱での尾張氏の貢献に応える意味で熱田神宮に来られたのでしょう。
明治になって、熱田神宮も伊勢神宮と同格を求めたのですが却下されました。熱田神宮とは、そのように皇室から冷遇し続けているのです。
「三種の神器」のひとつ「草薙の剣」を祀るとは言っても、現実「剣」は皇居内にありますので、天皇の参拝もいだたけない、悲しいかな、なのであります。
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