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平成の虚無僧一路の日記

紀州興国寺と沼津興国寺城 

2022年01月06日 外部ブログ記事
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紀州興国寺は、なんと富士山麓に勢力をもつ葛山(かずらやま)氏によって勧進された寺だった。葛山氏の祖「葛山五郎景倫」は、源実朝の家臣で、実朝の命を受け中国に渡る予定だったが、実朝が暗殺されたため、高野山に上り、出家して実朝の菩提を弔う。その忠心に感じた北条政子が、葛山景倫に紀州由良の地頭職を与える。景倫は高野山で知り合った「願性(覚心)」に、実朝の遺骨を中国の雁蕩山に分骨することを託して、渡宋させる。そして「願性(覚心)」が帰国すると、所領の由良に「西方寺」を建立し、「願性(覚心)」を開山に据えるのである。というわけで、「願性(覚心)」が開いたという寺は「興国寺」ではなく、初めは「西方寺」だった。中国行きを夢みていた実朝の遺志を表した名だった。「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝の騒乱が始まって、後醍醐天皇の南朝の元号「興国」に由来するものと考えられる。そこで、紀州興国寺の二世「孤峰覚明」が浮かび上がってくる。「孤峰覚明」は、後醍醐天皇の子で南朝二代目の後村上天皇の帰依を受け、寺号を「興国寺」と賜った。これにより、興国寺は南朝方の色彩を強める。そして「孤峰覚明」の弟子「抜隊得勝」が、相模の出で、甲州塩山に向嶽寺を建て、山梨、静岡、神奈川の地域に末寺700を誇る教線を拡大するのである。それで、沼津にも「興国寺」があった。伊勢新九郎は、初めは沼津の「興国寺」に寄宿していたのかもしれない。だが、伊勢新九郎が、今川氏親からあてがわれた所領は富士山麓の富士郡 (現裾野市)である。伊勢新九郎は、まず富士郡に居を構え、葛山氏と親しくなり、数年後にその娘を妻にした。沼津の興国寺に入るのは、その後、小田原に攻めるために、葛山氏の縁助で、移り住んだのかもしれない。「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。 「60代の日記」ランキングです。クリックお願いします。

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