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平成の虚無僧一路の日記

「愛知一中」OBのOさんに聞く 

2021年08月15日 外部ブログ記事
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今日8月15日終戦の日 
Oさんが亡くなられたとの知らせ。91歳でした。以前戦争中のことをお聞きしました。Oさんは戦時中愛知一中(現旭丘高校=東大医学部進学率No.1)に在籍していた。「愛知一中」というと、数年前、NHKでも紹介された「予科練総決起事件」があった学校です。昭和18年7月、校長や教師らが「国家の危急存亡の時」と生徒の愛国心を炊きつけたことで、3、4年生の生徒全員が「海軍の飛行予科練習生」への志願を決め、校長に提出した。これに あわてたのは親たち。一中は名古屋でもエリートが集まる学校だった。親としてみれば、わが子は「末は博士か大臣か」と期待していたのに、一兵卒として散るだけの「特攻」に志願するというのはなんとしても止めたいけれど、正面きっては口にできない。当時の新聞はこの事件を「快挙」と賛美した。しかし、親の必死の説得で、結局 約700名中 56名が入隊した。そして3人が戦死した。
NHKスペシャル「15歳の志願兵」

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Oさんは 大阪の陸軍幼年学校に入隊し、そこで終戦を迎えた。8月15日、終戦の玉音放送を、炎暑の中、制服制帽に身を正し、校庭に直立不動して聞かされたが、内容は聞き取れず、「もっと頑張るように」と激励の勅諭かと思っていると「直ちに解散」の命令。「幼年兵も 米軍が進攻してくれば 捕えられ殺される」と言うので、国民服を泥につけて(わざと汚して)、きのみきのまま名古屋行きの汽車に乗った。大阪から名古屋までの汽車には引き揚げる海軍の兵隊たちがたくさん乗っていて、彼らは、缶詰などの食料をふんだんに持っていた。海軍はいいなと思った。家に帰ってみれば、栄の一等地にあった「履物店」は空襲で跡形も無し。「両親は死んだか」と思って あきらめていたら、闇市でばったり再会した。
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というような話だった。そこで、2013年に上映された水谷豊主演の映画『少年H』での疑問点について聞いてみた。「中学校で、正門に、中学生が銃を構えて歩哨に立つということはあったのか。実弾による射撃訓練などあったのか」と。
Oさんの答えは「無かった。中学校での実弾訓練も無かった。配属軍人が腰に下げていた短剣でさえ、木刀だった」と。

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