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雑感日記

長寿社会と言うが・・・ 

2011年09月13日 外部ブログ記事
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★子どもの頃の、小学校の6年間はホントに長かったように思う。
中学校も、高校も、大学もそれなりに長かった。
歳をとるとともに1年が短くなるように思えてならない。
今年も早や、半分経ったと思ったのが、ついこの間であったし、お盆だと思っていたらもうお彼岸になろうとしている。
こんな調子で行ったら、すぐ80になり、そのうち人生終りである。
 
★とそんなことを書いているだけ、元気なのかも知れない。
最近は、自分より年下の方が、亡くなるのが、普通になってきたような気もする。
50代、60代の頃は、自分より若い方が亡くなると、それは普通のことではないとほんとにそう思っていたのだが、最近はそう言う感じを持たなくなってしまった。
特に、会社の方で、特に関係がなくても、面識があった方が、だんだんとこの世を去られる。
ある程度は、知っていた方だけに、あの人の人生は? などと思ってしまうのである。
 
★こんなことを思うようになったのは、やはりこの数年のことである。
若いころから、一緒にいろんな想い出を共有していた野球部の仲間たちが、数人続けて亡くなったのである。
その人たちの人生の一部は、私も一緒に、共有していたようなところもある。
平たく言えば、世のなかの『親友』と言うやつである。
『親友』と言える人の数が極端に減ってしまって、最近新しくお付き合いが始まる方は、滅法若い方が多いのである。
とても『親友』にはなれぬが、若さは大いに頂いている。
 
★こんな年になっても、口では『もう何年生きれるか解らない』と言いながら、『来年死ぬ』などとは決して思ってはいないのである。
私の母は今102歳である。100歳くらいまではホントに元気であったが、この2年ぐらいですっかり衰えた。
それでも、他の方に比べたら元気だが、何のために生きているのだろうか? と自分でも思うようである。
『もう早く死にたい』が口癖になってきた。
 
市から敬老の日のお祝いを頂いた。100歳以上には毎年出るようである。それも5万円の大金である。
母は、今特別養老施設に入っている。 全ての面倒を施設でお願いをしている。
5万円のお祝い金を頂いても、本音で言って『母のために』使う術がないのである。
これは多分、私の小遣いになってしまう。
『そんなこと』、と仰るかも知れぬが、具体的に使う術はあまり思い浮かばないのである。
本人はお金が要らない生活になってしまっている。
 
★長寿社会は確かにめでたいが、自分の意思で、自分で何でも出来る状態での長寿でなければならないと思う。
病院で、管をいっぱいつけて栄養剤を投入したりして、生きているというより『生かされている』のは、考えものである。
病院の経営にだけ役だっているのでは、と言えば不謹慎かも知れぬが、そんな気がする。
 
お陰さまで、私自身も家内も、結構元気だが、自分で何も出来ぬようになったら、生きながらえるのではなくて死んだ方がましだが、それがまた自由にはならないのである。
いずれにしても運命とか、寿命を大事にしたいものである。
 
訳の解らぬようなことを書いたが、
今机の上に、特別養老施設に受け取りを書いて頂いてきた敬老の日のお祝い5万円が置いてある。
なかなか想いは複雑である。そんなことでこのブログを書いている。
母には寿命の中で、長生きして欲しいと思っている。
多分、私の財布にその5万円は収まるのだろう。
 
★この施設には、100歳以上の方が5人くらいおられる。それは全部本人ではなく家族に渡されるようである。
市は、財政悪化で従来は、もう少し若い年寄りにもお祝い金を渡していたのだが、この頃それは廃止になった。
そんな人たちは、例え5000円でも、貰えたら喜ぶのにと思ったりもする。
と言って財源の総額の問題もあって難しいのだろう。
 
貰っておいて、文句を言っているようで恐縮だが・・・・複雑である。
 
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