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平成の虚無僧一路の日記

八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係 

2021年07月12日 外部ブログ記事
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「八橋検校」の出生地は、岩城国(福島県)平(たいら=現いわき市)とされている。『筝曲大意抄』にそう書かれているそうな。「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期があった。しかしそれは晩年の事。
いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと内藤義泰(又は義概)が、なかなかの風流大名だった。この殿様の庇護のもと、八橋は筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。その「八橋流」が、沖縄と信州松代に伝えられたとされる。
この謎を解くヒントが見つかった。なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、明国に渡ろうとして果たせず、琉球に留まり、琉球国王の信任を得ていたとのこと。その「袋中上人」が、岩城の芸能を琉球に伝えたという。
琉球の三線の曲に「滝 落しすがち」という八橋流の筝曲の手が使われているとのこと。「滝落とし菅垣(すががき)」であろうか。「滝落とし」という曲は尺八にもある。また「菅垣(すががき)」とはお箏の手だが、尺八曲にも「山谷菅垣」とか「秋田菅垣」とか多くある。
であるから八橋流筝曲は「袋中上人」が琉球(沖縄)に伝えたのであろうか。「袋中上人」と「八橋検校」は交流があり、「袋中」は八橋から三絃と箏との手ほどきを受けていたのではないか、と考えたいが、残念ながら、
八橋検校は、慶長19年(1614年)〜貞享2年6月12日(1685年7月13 日)の人。「袋中上人」は、天文12年(1552)−寛永16年(1639)の人で、「袋中」が琉球に渡ったのは、慶長8年(1603年)だから、八橋はまだ生まれていない。であるから袋中が八橋から箏、三絃を学んで沖縄に伝えたとは考えられない。
逆に「六段」の原型、雅楽の楽箏や筑紫流の「六段」が岩城に広まっていて、「袋中」や「八橋」も、それを知っていたとは考えられないだろうか。

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