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平成の虚無僧一路の日記

6/29 は 瀧廉太郎の命日 

2021年06月28日 外部ブログ記事
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今日は何の日 滝 廉太郎の命日
滝 廉太郎は 1879年(明治12年)8月24日生 - 1903年(明治36年)6月29日没
滝廉太郎といえば、もう『荒城の月』。尺八のボランティア演奏では欠かせない定番となっている。滝がイメージしたという豊後(大分県)竹田の岡城にも行ってきた。滝は竹田の出身と云われるが、実は東京生まれ。先祖は代々豊後日出藩の家老を務めた家柄。父・吉弘は明治政府の役人となり各地に転勤したため、廉太郎も横浜や富山、大分県竹田市などに移り住んだ。
明治23年(1890)15歳で東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学し、ピアノと和声学を学び、明治31年(1898)首席で卒業。研究科へと進んだ。
1900年21歳で 日本人による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲。つづいて、1901年、組歌『四季(花、納涼、月、雪)』、中学唱歌として『箱根八里』『荒城の月』『豊太閤』を作曲した。それは、これまでの日本のヨナ抜き音階(ファとシが無い5音階)ではなく、ドレミファソラシドの西洋音楽の旋律を世に普及させた歴史的な偉業だった。
その年、1901(明治34年)4月国費留学生としてベルリンへ行き、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーンに入学する。ところがわずか5か月後の11月に肺結核を発病して翌年帰国。
1903(明治36年)6月29日、大分市の自宅で死去した。満23歳。結核に冒されていたことから死後多数の楽譜が焼却されたという。
滝は結婚しておらず、妹・トミの孫が筑紫哲也とのこと。
『荒城の月』は、土井晩翠が東京音楽学校からの依頼で「中学唱歌」のために作詞。曲は公募され、廉太郎はそれに応募して採用された。
作曲にあたり思い浮かんだ情景は、幼少期を過ごした大分県竹田市の岡城だといわれている。岡城は明治4年(1871)廃城令により建物が全て破却され、すでに石垣のみの山城だった。また、廉太郎は富山にもいたことがあり、「富山城もイメージされている」と富山では主張している。
実は、現在一般に歌われている『荒城の月』は滝廉太郎の原曲とは変えられている。
滝廉太郎没後の1917年(大正6) 山田耕作がロ短調からニ短調へ移調し、旋律も変えた。「花の宴」の「え」の音を、原曲はシャープ#がついていたが、半音下げられた。
ついでに、現在歌われている「雪やこんこ」と「鳩ぽっぽ」も滝廉太郎のとは違っている。文部省唱歌は「作詩作曲者不詳」となっている。
そこで都市伝説。
当時の音楽家たちは滝廉太郎の才能をねたんで、彼を追放すべく、当時結核が流行っていたドイツに留学させた。そして思惑通り、滝はドイツで結核にかかり23歳で亡くなった。滝の遺作となった曲は死の4か月前に作曲したピアノ曲『憾(うらみ)』であると。

最近人気の「天空の城-竹田城」とはちがいます。豊後(大分県)竹田市にあるのは岡城。
「天空の城・竹田城」は 兵庫県朝来市和田山町竹田です。『荒城の月』も今では小中学校の音楽からはずされ、竹田の岡城も兵庫県の竹田城に人気を奪われ、やれやれです。

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