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平成の虚無僧一路の日記

南部藩家老 楢山佐渡 

2021年06月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『壬生義士伝』で吉村貫一郎の上司「大野次郎右衛門」のモデルは南部藩家老「楢山佐渡」のようだ。「楢山佐渡」は、藩主の縁戚にあたり、代々家老職。22歳で家老となり、後、主席家老となった。以下は「北条四郎のホームページ〜幕末南部藩を率いた悲劇の武将 楢山佐渡」より。慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、南部藩に、朝廷より召集令状が来、楢山佐渡と他2名が京都に上った。そこで楢山佐渡が見たものは・・・・・。 京都市中は、西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵が肩で風切って歩いている。花街は、そんな連中であふれ、頽廃そのものであった。楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。西郷とその部下達は車座になって「すきやき」を食っていた。西郷の、ラフな姿に、紋付袴に裃(かみしも)の楢山は面食らう。楢山の血は逆流した。こいつらは侍ではない。そして、帰藩して「楢山」は 各々方に説いた。「薩長は勤皇どころか、姑息なやり口で天下を奪い取った反逆者にほかならない。会津・庄内両藩を討伐せよという勅はそもそも偽勅である!天子様が幼いことにつけこみ、薩長は自らの私の恨みを晴らさんがため、勅命を捏造しておるのだ。我らは武士である。もののふである以上、卑怯な輩を討ち、君側を清めねばならぬ。無実の者を陥れ、朝廷をないがしろにする者共にひれ伏すとなれば、もはや武士ではない。拙者は義の為に戦い、死ぬ道を選ぶ。」 藩を「奥羽越列藩同盟」側に導き、秋田大館に攻め入ったが、戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺で刎首された。享年39。辞世は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に       うつらぬものは 武士(もののふ)の道」まさに、『壬生義士伝』の「大野次郎右衛門」。
でも、それならなんで、吉村貫一郎を死に追いやったのかね。小説の矛盾。ボロが出たね。

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