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小池都知事「灯火管制」が無意味だが全然笑えない「歴史的理由」・恐怖支配の始まりになるかもしれない・大前 治弁護士 

2021年04月30日 外部ブログ記事
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友人の川口重雄さんからのメールを転載します。

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各位      4月30日〔本日第7信〕これも友人から届いた情報です。今日も高等部3年日本史B(選択)の授業では、10月21日までの間に必ず総選挙がある。満18歳以上の人は投票所へ、と呼びかけました。前回2017年衆院選投票率は53.7%。実に4千7百万人以上の18歳以上の国民が棄権しました。7月4日には東京都議会選挙があります。主権者がきちんとした意思表示を。それでは。川口重雄拝-----Original Message-----小池都知事「灯火管制」が無意味だが全然笑えない「歴史的理由」・恐怖支配の始まりになるかもしれない・大前 治弁護士(現代ビジネス)210427https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82584小池都知事「消灯要請」の衝撃2021年4月23日、小池百合子東京都知事は、午後8時以降は街灯以外の照明を消すよう要請すると発表した。これには「コロナは照明灯によって感染するのではない」とか「戦時中の灯火管制かよ」と揶揄する声があがった。しかし、この消灯要請は笑って一蹴できるものではない。むしろ、監視社会や恐怖支配への入口ではないかと、大きな危惧を感じる。なぜなら、街全体を消灯により暗くすれば、休業要請に従わず営業している店舗を鮮明に「あぶり出す」ことになるからである。それだけではない。これまでは、バラバラの店舗一軒ずつに対する休業要請だったが、これからは地域や商店街が全体として消灯を要請されることになる。そうなると、営業を続ける店舗は、街全体の取り組みに反する者、隣近所の人々に歯向かう者、という烙印を押されかねない。こうして、これまでの「行政による休業要請」が、一歩進んで「街全体の自発的な消灯キャンペーン」に変容する。地域での相互監視が進み、従わない者への異端視や排除の動きの強化が危惧される。休業しない者は「不届き者」なのかそもそも、休業要請に応じない店舗は不届き者だ、とは決めつけられない。生きていくために営業せざるを得ない窮状にある店舗が多く存在する。今回の非常事態宣言の期間中(2021年4月25日〜5月11日)、休業要請に全面協力した自営業者・中小企業に東京都が支給する支援金は1日あたり2万円である。これは焼け石に水である。酒類を提供する居酒屋やバー等を考えてみても、1日2万円では店舗の家賃にも足りない場合がほとんどであろう。営業を続けざるを得ない店舗が続出するのは当然である。休業による感染抑止を本気で目指すならもし、国や自治体が店舗休業による感染抑止を本気で目指すなら、夜8時以降に限らず広汎な休業措置をとったうえで、「安心して休業できるだけの補償金」を給付することが不可欠である。終日の店舗休業を命じたドイツでは、休業企業に固定費の最大90%または月最大50万ユーロ(約652万円)が給付される。単純比較はできないが、東京都の援助金が低すぎることは明らかである。日本では、補償が不十分だから、「営業禁止」ではなく「自発的な休業のお願い」しかできない。逆に言えば、「あくまで自発的な休業であり、政府が休業を強制したのではないから、完全な補償は不要だ」という理屈なのである。それゆえ休業が徹底されず、感染防止の実効性も高まらない。政府が十分な補償額を給付しないのは、財政的理由からである。東京五輪への巨額支出は惜しまないが、窮状にあえぐ営業主への補償は出し渋るのである。空気を変えようとする動きの恐ろしさ小池都知事自身は、照明を消すこと自体でコロナウイルスが弱まるなどとは思っていないはずである。多かれ少なかれ、「街の雰囲気を変えること」を狙っているのである。これは、「経済的補償ではなく、監視や圧力によって休業させる」という恐ろしい発想である。大阪府の吉村知事は、飲食店の休業を監視する「見回り隊」のために人件費など予算2億円を計上した。これもまた、休業しない店舗に対し「補償はしないが監視をする」という動きである。本来は休業の「お願い」に過ぎないはずだが、営業中の店舗にズカズカと押し入って、休業せよと圧力をかけるのである。こうなると、もはや「お願い」ではなく「強制」に等しい。そこまでするのであれば、明確に営業禁止の措置をとって、それと引き換えに十分な補償額を給付するべきである。大阪では、吉村知事(および橋下徹元知事)が公的医療や保健行政を縮小してきた。それが現在の医療崩壊をもたらしているのである。その責任を棚に上げて、市民に責任転嫁するかのように「見回り(監視)」を強めるというのは、筋違いも甚だしい。無意味だった戦時中の灯火管制小池都知事の消灯要請は、戦時中の灯火管制を想起させた。被害防止の効果は乏しいが、社会の空気を変容させる効果が大きいという点で、両者は共通する。灯火管制とは、空襲の標的にならないよう、夜間の照明を制限することである。それが法令に明記されたのは、1937年(昭和12年)制定の防空法が最初である。防空法とは「空襲から逃げずに火を消せ」と命ずる法律である(過去記事「『空襲から絶対逃げるな』トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした」参照)。防空法の制定時には、「火災は隣組で消せ 危険でない焼夷弾」とか「逃げだすと食糧停止」「傍観は立派な犯罪 国民一人一人に責任」といった新聞記事が掲載された。空襲から命がけで都市を守ることが国民の責務とされたのである。この防空法の第8条は「光を秘匿すべし」として灯火管制を規定した。違反者は拘留や罰金に処せられた。さらに日米開戦直前の1941年11月に厳罰化され、灯火管制の違反者の処罰は最大で懲役1年とされた。空襲に備えた防空訓練というとバケツリレーの消火活動が有名だが、夜間に消灯する灯火管制の訓練も繰り返し実施された。町内会(隣組)の見回り隊から「光が漏れているぞ!」と怒鳴られたという体験談も多く残っている。ところが、この灯火管制がまったく無意味であることは、早々に実証された。日米開戦の4ヵ月後、1942年4月18日に米軍は日本への最初の空襲をおこなった。B25爆撃機16機が白昼に東京・神奈川・愛知・三重・兵庫を順次攻撃し、死者約90名を含む甚大な被害が出た。この空襲は、白昼堂々と実施された。したがって当然ながら灯火管制など無意味であった。また、戦争末期には夜間の空襲も繰り返されるたが、レーダーを搭載した米軍機に対して灯火管制は効果がなかった。1945年3月10日の東京大空襲は夜間におこなわれたが、一晩で死者10万人を超える甚大な被害が生じた(過去記事「10万人死亡『東京大空襲』の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか」参照)。「灯火管制のおかげで攻撃を免れた」という事象は一度たりとも確認されなかった。政府が灯火管制を続けた理由被害防止にとって無意味だと判明した後も、日本政府は灯火管制を終戦まで続けた。1944年6月16日未明に現在の北九州市を襲った大空襲では、死者300人以上の被害が出た。夜間空襲でも灯火管制は意味がなかった。ところが政府広報誌「週報」1944年7月5日号は、この空襲の教訓を次のように述べている。灯火管制は今後大いに強調されなければならない。僅かの光でも残存していると、すぐ敵の好餌になる。それで、この位は大丈夫だろうというような考え方でなく、自分で家の内からも隈なく点検すると共に、隣組同士で責任を分かち合って見回るぐらいにして、不幸を呼び寄せることの絶対ないように気をつけなければならない。日本軍が反撃できず敵機侵入を許したことへの批判を回避し、「日本軍は強い、我が国は必ず勝つ」と言い続けるために、空襲による甚大な被害を隠して、灯火管制の重要性を説いたのである。さらに「隣組同士で責任を分かち合って見回る」ことまで指示している。国の責任ではなく、個人の責任でもなく、隣組(町内会)の連帯責任が強調されたのである。こうした状況が、後に何を招くのかは予想できるであろう。このような自己責任論を振りまいた政府が、「もし被害が生じたら、それは灯火管制や消火活動を怠った国民のせいだ」と言い出すのは想像に難くない。実際に、そのようになった。戦争末期に政府の検閲を受けた新聞の紙面上には、以下のような見出しが連日並んだ。・死の手に離さぬバケツ 火よりも強し社長一家敢闘の跡・何事ぞ 待避に専念 消火忘れた不埒者・逃げ腰、傍観者なきか・防火を怠れば処分 夜間暴爆の逃避者に釘命を捨てて消火活動をした美談を広める一方で、防火活動を怠る者を徹底的に非難している。避難者を処分するとまで脅しているのである。このようにして、戦争や空襲に打ち勝つことは全ての国民の義務とされた。国家が国民の命を守るのではなく、国民が命を捨てて国を守るよう命じられたのである。灯火管制も、そうした空気づくりに大きな役割を果たした。国民が「電灯を消す」という簡単な行為によって御国の役に立つことができ、自分だけでなく近所の人々にも消灯を呼びかけあうことで戦争勝利に貢献できる。他方で、町内の1軒だけでも光を漏らしたら街全体が敵機の標的になるから、灯火管制に違反する者は絶対に許さない。そうした空気が、戦争に反対する者・協力しない者をあぶり出し、誰もが戦争に協力せざるを得ない空気を作り出した。単純に「今も昔も同じ」と言うことはできない。しかし、小池都知事の消灯要請や、吉村府知事による見回り隊の出動命令は、国や行政の責任を曖昧にして、国民一人一人に感染拡大防止の責任を負わせる空気づくりに一役買っている。その意味で、戦時中と共通するものを感じる。だから私は、消灯要請や見回り隊に対しては、「無意味だ、無駄だ」という批判よりも、「恐ろしい事態をもたらす施策である」という批判をすることが大切だと思うのである。
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