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1942年4月18日 第二次世界大戦初空襲の悲劇 「早稲田中・高等学校いのり≠フ碑」 

2021年04月18日 外部ブログ記事
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新宿区総務部総務課発行「新宿区平和マップ」より
第二次世界大戦初空襲の悲劇 1941年12月8日の真珠湾攻撃によって、戦争は世界大戦に発展していったが、当初の戦況は日本にきわめて有利に展開していた。この戦況を逆転させ、アメリカ国民を鼓舞するねらいで立案されたのが、アメリカの日本本土初空襲作戦である。作戦の責任者に「向こう見ずな飛行徽ヤロウ」の異名を持つ、陸軍中佐ジェームズ・H・ドウリットルが任命されたので、「ドウリットル作戦」と言われた。 始めの基本計画は16機の戦略爆撃機B25(ノースアメリカン)を航空母艦ホーネットで日本を攻撃できる所まで運び、1942(昭和17)年4月18日の午後遅く、B25を発艦させ、工業都市を夜間攻撃し、東シナ海を横断して中国東部で燃料補給をする予定であった。しかし、18日の早朝日本海軍の哨戒艇に発見されてしまったので、10時閻以上攻撃を早めた。 日本側は哨戒艇からの報告を受けたが、あまりに遠距離。高をくくっていたため、首都東京の直撃をあっさりと許してしまった。さらにドゥーリットル中佐の一番機が東京に焼夷弾を落としてから、空襲警報を発令している。8時20分より発艦しはじめ、16機が日本本土を攻撃したが、8機が東京に、横浜3機、横須賀1機、その他は名古屋と神戸に焼夷弾を落とし、大阪を通過している。(新宿平和宣言記念誌「語り継ぐ平和への願い」より) この時東京で空襲を受けたのは荒川、王子、小石川、牛込。ほかに来襲機数22、爆弾500ポンド、焼夷弾225キロ4個以上、戦災家屋251、負傷者331、死者39と、『東京大空襲』にこのように記録されている。 新宿区内では2機が早稲田地区を空襲、早稲田中学校校舍に軽度の被害『その際同校生徒一名が焼夷弾の直撃を受けて死亡した。また、鶴巻国民学校および、その付近にも焼夷弾が落とされ、鶴巻町の一部の家屋と岡崎病院にも火災が発生している。その他馬場下町も被害を受けた。(しかし、爆撃現場は立入禁止で、空襲があったことだけが報道され、我が方の被害軽微というだけで、実態は知らされなかった。そのため被害現場の一部の人たちしか真実を知ることが出来ず、国民は大本営発表を信じるしかなかった。) この時死亡した小島茂君をしのぶ「いのり」の碑(制作者の佐野伊助氏)が、早稲田中学の校庭の一遇に1983年建てられた。当時の同級生が中心となって建設したものである。戦争中粗末にされた人間の命を見つめています。(毎年4月18日に在校生によって献花が行われている。)
2000年新宿平和委員会発刊「〜葵から菊へ〜 軍都新宿の歴史を訪ねる」(絶版)より
(了)

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