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平成の虚無僧一路の日記

保科栄姫と多劫姫 

2021年02月11日 外部ブログ記事
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保科栄姫(えいひめ1585年〜1635年)は保科正直の娘。母は徳川家康の11歳したの妹多劫姫。多劫姫(たけ)の母は、徳川家康の母於大の方。要するに、栄姫は徳川家康の姪にあたる。また、栄姫は名奉行・大岡越前の大叔母にもなる。関ヶ原の直前、保科栄姫(16歳)は、中津12万石の黒田官兵衛の子黒田長政(33歳)に嫁ぐこととなった。

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豊臣秀吉が亡くなった後、黒田家との絆を強くしたいと言う徳川家康の意向で、栄姫は化粧料として豊後国玖珠郡内に1,000石を賜っている。
黒田長政(33歳)は、栄姫を正室に迎える前に、蜂須賀正勝の娘糸を正室としていた。15年つれ添っていたが男子無く、糸を離縁して、継室に栄姫(16歳)を迎えた。
黒田家としても、徳川の世に生き延びる手段であった。また会津保科家とも絆を強くした。関ヶ原の戦いでは、大坂天満の黒田屋敷に滞在していたが、石田三成による妻女人質計画があった際、栗山善助・母里太兵衛が大坂から脱出させ、中津まで逃れる事に成功している。この脱出で、栄姫は初めて中津城に赴いた。なお、この脱出劇には、いくつかの逸話が残されている。
夫人を1人ずつ俵に詰めて、商人に化けた母里太兵衛がその俵を天秤棒で担いで屋敷を出たとする話。母里太兵衛は民謡「黒田節(武士)」のモデルとなった男。
母里太兵衛が病人のふりをして乗物に乗って、番所で迫真の演技をしてみせ、それを何日も繰り返すと、番人が気の毒がって乗物の中を確認しようとしなくなったところを、毎晩一人ずつ夫人を外に連れ出したとも。
二人の奥方を連れ出した後、屋敷には身代わりを置いて、石田勢の目をごまかしたと言う話もある。
屋敷からの脱出はうまく行っても、目指すは九州・中津。
木津川の舟番所をどうやってやり過ごすか、栗山善助らが考えているところに、玉造の方から火の手が上がった。細川忠興の妻・細川ガラシャ(明智玉)が自害の上、屋敷に火を放ったのだ。
大坂城内は大騒ぎになり、舟番所の警備が手薄になった隙に、母里太兵衛は奥方たちを船底に隠して川を下り、別の大きな船に乗り換えて、海路で中津に向かう事ができた。
栄姫と黒田長政との間には黒田忠之(福岡藩2代藩主)、
黒田長興(秋月藩藩祖)、黒田高政、黒田徳(榊原忠次室)、
黒田亀子(池田輝興室)の三男二女を設けている。黒田忠之が、古くからの重臣よりも、自分が寵愛した人物を要職に取り立てた事に反発した栗山大膳(栗山善助の子)が起こした「黒田騒動」の際には、弟の保科正貞を通じて幕府に働きかけもした。
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